●調布文化会館八階のエレベーターホールからは下が見下ろせる。建物の前には大きな樹があって、緑の葉をびっしりとつけている。八階からの視点は樹よりも高い。大きな樹を上から見下ろす。強い光が真上から当たり、その樹の影が、道路の幅を完全に覆っている。車が、日向から日陰に入り、また日向に出て行く。自転車が、日向から日陰に入り、また日向へ出て行く。歩く人が、日向から日陰に入り、また日向へ出て行く。それを上からずっと見ている。
●『RED RED RIVER 2』(野上亨介)。この映画については、昨日、対談で、監督の野上さんと直接いろいろ話したので、改めてここに何か書く気にはあまりならないのだが、面白い映画なので、もっといろんな場所で上映すればいいのに、と思った。
矢部史郎と山の手緑が実際に対話している場面とかもしっかり撮られているので、それを観たいと思う人もけっこういるんじゃないかと思う。そういう「売り」は、監督としては不本意なのだろうし、野上さんは、「この映画は社会運動家としての矢部くんの活動とかとはあまり関係ない」と言っていて、観客の関心が過剰にそっちに引っ張られることを危惧していたけど、でも、実際に観てみれば、ここでの矢部史郎は、完全に、あやしくも胡散臭い、あくまで映画の登場人物(被写体)であり、映画のなかの人となっていることは明らかに伝わると思う。
ただ、この映画では、例えば森桃子は「演じる人」であり、ブルーム・ダスター・カーンは「演奏する(歌う)人」であり、鈴木礼未が「飛び跳ねる人」であり、可能涼介が「まなざす人」であり、ぼくは「歩く人」であり、という風に、役割が限定され、ただひたすらそうでありつづけ、それぞれその人自身の閉じられ孤立した系列のなかで行為しているのだが(それらを結びつける、関係づけるのは、ただ空間という形式であり、またはモンタージュ-継起的時間という操作-形式だけだ)、しかし矢部史郎だけは、アクションする人であると同時に「語る(対話する)人」という特異な位置が与えられている(傘を射すカップルの会話は、逆回転によって内容が聞き取れない)。この映画のなかで並置される複数のセリーは、基本的に「展開」がないのだ(そのことと、この映画の時間が決して「層」をつくらないことと関係があるように思う)。
そのようにあるこの映画のなかで唯一、矢部史郎だけが他人に語りかけ、干渉しようとする。これはもしかすると、野上さんが強調する「映画の無関係性」を裏切るものかもしれない。そしてそこで、「語ること」の貴重さ(「社会の女性化」について語り続ける矢部史郎に対して、「それって便所の蓋を閉めとけ的なことでしょう」と山の手緑が創造的な要約で応える場面)と同時に、その胡散臭さ(矢部史郎が母子から凧を巻き上げる場面)が表現-体現されているというところが、おそらく野上さんの意図を超えて(裏切って?)、この映画でもっとも面白いところかもしれないと思った。この映画のなかの、純粋に自分自身として行為しつづける人(セリー)たちのなかで、ただ矢部史郎だけが「語る人」のもつ不純さ、胡散臭さをもつ。