●お知らせ。今日発売の「モーニング・ツー」(http://morningmanga.com/news/847)という雑誌で、そこに連載されている「I Care Because You Do」(西島大介)というマンガの「欄外」に、ぼくが書いた小説がひっそりと載っています。戸塚泰雄さん(http://d.hatena.ne.jp/nununununu/)がやっている「nu」の番外編ということで、毎号、西島さんのマンガの内容と関係があるような、ないような文章が、戸塚さんの編集で欄外に載るという企画だそうです。
約九百字の掌編です。タイトルは「綾波レイの部屋(夢)」で、タイトル通りに「エヴァ」の二次創作です。特にどこにも「小説」とは銘打っていないので、数ページにわたってページの隅に印刷されている文字の連なりを、この雑誌の読者は何だと思って読む(読まない)のでしょうか。もし小説と銘打ってあったとしても、なんだこれ ?、という感じだとも思いますが。
●作品の「構造」とか、ぼくも簡単に使うけど、それって一体何のことなのか、考えてみるとよく分からなくなる。それは作品の物質としての組成のことなのか。それとも、その作品を組み立てた作者の無意識の構造-組成のことなのか。あるいは、その作品が鑑賞者なり社会なり歴史(言説)なりに及ぼす作用-影響の諸相を分析することなのか。しかしそれらはすべて、「作品の構造」と呼ぶに値しない。この三つのレベルのどこにも「作品」はない(還元されない)から。
「作品」という特異な存在様態の在処は、決して自明のものではない。それはきわめてあやうい場所で成立する(成立出来ない ?)、胡散臭いものだ。そもそもそ「作品」などというものはどこにもない幻でしかないかもしれないのだ。幽霊の構造とか言っても、そもそも幽霊を捕まえる(定義する)ことができない、というようなものだ(幽霊という記号-イメージが社会のなかでどのような機能をもってきたか、あるいはその変遷などについてならば分析可能であろうが、それは「幽霊」そのものを捉えてはいないし、本当に幽霊が存在するかどうかという本質的かつ胡散臭い問いには届かない)。そもそも幽霊など存在しないかもしれないのと同じように、作品など成立しないのかもしれない。根底にある、そのような胡散臭さを自覚しなければ(胡散臭さを避けることは決して出来ないということを自覚しなければ)、社会的、政治的なコンセンサスのようなものを、客観性(構造)だと勘違いすることになってしまう。
作品の構造とか言うと、あたかもそこに客観的な何かがあるかのように思えてしまうのだが、それこそが罠であるように思う。作品に構造がないと言っているのではない。作品には、明らかに「作品としての」何かしらの構造(客観性)がある、というか、あるとしか思えない。そこを信じることが出来なければ、作品を作ったり、受け取ったり出来ない。しかし、それは(それが「ある」と信じることは)決して自明なことではない。その信仰を保証するものはない。作品というものの胡散臭さ、作品をめぐる言説の不純さと胡散臭さ、それらを引き受けた上で(そういう胡散臭いやり方で)、「客観性」という「最大級に胡散臭いもの」に触れることを目指す。ぼくにとって作品とは、そういうものである気がする。
●例えば、マッドサイエンティストという形象は、外的世界に対するあくなき探求と分析が、実は、自分自身の脳の特異性(内的なもの)の表現でしかないかもしれない、という危うさを表現する(あるいは、人がそのような危うさに魅了されてしまうことを表現する)。でも、このような危うさを抜きにして「客観性」に迫ることは出来ないように思われる。