●『ノロイ』(白石晃士)をDVDで。これはちょっと面白かった。話としてはメチャクチャで、作品としての何かしらの一貫性のようなものもみえないのだが、とにかく「やばさを感じさせるテクスチャー」がこれでもかと盛り込まれていて、全体としてやたらと「なんかやばい」という感じが充満していた。さらに、「やばさを感じさせるテクスチャー」をひたすら次々につなげてゆくというやり方の荒っぽさが、作品全体をまるでゴミ屋敷のような様相にしていて、作品そのものをも「やばい感じのテクスチャー」にしている。物語とか、アイデアとか、演出−効果とか、作品の構造とか、そういうことではなく、とにかくひたすらテクスチャー勝負。
ただ、このノイジーで荒れた、散らかった感じのテクスチャー同士の接続を可能にしているのが、フェイク・ドキュメンタリーという手法であり、この作品全体が、行方不明になった心霊ライターみたいな人がつくった(テレビで放送されるはずだった)ドキュメンタリー番組という形式をとっていることによるのだと思う。つまり、テレビという何でもありの雑多な、そしてきわめて身近なメディアが前提としてあって、成り立っている。それと、テレビというメディアを通した、よく知っている心霊番組というフレームをもち、普段見ている芸能人が(その芸能人の役のままで)出ていたりするという形式(設定)によって与えられる映像の方が、『パラノーマル・アクティビティ』のような、ごく親しいカップル二人だけのプライベートな映像(という設定)よりも、「(触覚的な)より近い」感触のものとして感じられるというのも面白い。その「近さ」によって、粗くて断片的で胡散臭いことが、逆説的に(胡散臭さを残したまま、胡散臭いからこその)リアリティとなるのだと思う。
とにかく、「ひたすらテクスチャー勝負」というだけで二時間近くもたせてしまうのはすごいと思った。
ノロイ』を観ると(『ノロイ』ってタイトルは『モロイ』に似てる)、これとはいわば逆向きにだらっとゆるく行こうとしたのだろう『オカルト』の方向性は分からなくもないけど、だだ、フェイク・ドキュメンタリーがフェイクとしての胡散臭さ(胡散臭いことのリアルさ)を超えて「現実に似てしまう」(もっともらしくなってしまう、素朴にリアリズムに近づいてしまう)ことの危険性については、もっともっと自覚的であるべきだと、ぼくはすごく思う。『オカルト』が、(物語としていかにチャチにしたとしても)例えば容易に秋葉原の事件を想起させてしまう(まるでそれを予測していたかのように)というのは、(本気で社会派をやるのでなければ)作品の美点では決してなく、大きな欠点となると、ぼくは強く思う。