●『東のエデン・劇場版』(1)(2)をDVDで。あー、苦しいなあ、という感じ。各方面にいろいろ気を遣っているうちに何がやりたかったのか分からなくなって、最後は強引に主人公のキャラの天然さの魅力によってすべてを回収しようとする(というか、作品の「賭け金」の重さを支えさせようとする)けど、『未来少年コナン』じゃないんだから、それはちょっと無理だよね、という…。
もともとこの話はジョニー=ちんこ(王、父、法)をめぐる話(というか、現代的な世界のなかでのジョニー=ちんこの成立の困難をめぐる話)のはずだったと思うのだが、劇場版では、その主題にはそもそも無理があった、みたいな感じでそれを完全にひっこめてしまって(「王様になる」っていう宣言は何処に行ったのか)、冒頭で少女が不本意に持たされたピストル=ちんこは、主人公によってあっさりと処理される。一方、エンターテイメントとしてのこの物語を引っ張っているはずの非常にシビアな「ゲーム」も、実質的にその切迫性が後退している(セレソン同士の対立、そしてセレソンとミスター・アウトサイドとの対立や齟齬は、真にシビアなものではなくなっている)。さらに、この作品を裏から支えていた、無数の匿名の者たち(匿名のちんこたち)のざわめきという次元も、きれいさっぱり消えている(主人公の鏡像のようにして一人だけ無名の「誰か」が出てくるけど、もはや展開上のご都合主義以上の意味はない)。だから、この作品は一体何をやりたかったのか、この作品の実質はどこにあったのか、というのが分からなくなっている。いや、劇場版は、もともとのオリジナルの『東のエデン』という作品の要素をひとつひとつひっくり返して、無意味化する(そこまで言わなくても、相殺する)ことこそが目的だったのではないかとさえ感じられる。
物語には、はじめてしまった以上、きちんとどこかに着地させ、決着させなければならないという約束がある。きちんとしたフレームをつけて、現実からは分離しておかなければならない。劇場版は、そのような責任感だけによってつくられているようにも感じられてしまう。作品の力は、そのような約束が破られる時にこそ生まれるとぼくは思うのだが、しかしここでは、あくまでエンターテイメントとしての物語の倫理(約束)に従うことが選択されているのかもしれない。
だから、一方に少女と謎の男との甘ったるい純愛の話(と謎の男である主人公の記憶−身元証明)があり、その二人の純愛を背後から仲間たちがあたたかく支える、という、なんとなくよくある、ぬるーい感じのところに着地するしかなくなってしまったのではないか。それは、作品の基本設定の次元で、中途半端に「萌え」的なものに(つまりアニメの消費者に)譲歩してしまったことの帰結でもあると思う。
(ただ、なにより不満なのは、劇場版では、「東のエデン」のメンバーのキャラクターがあまり魅力的に動いていなくて、物語上の単調な役割に収まっているだけだったという点だった。)