●『パンドラの匣』(冨永昌敬)をDVDで。これはぼくにはいまひとつだった。いや、まったくつまらないということはないのだが、冨永監督には、この程度のところで満足して欲しくないと思う(すごく丁寧につくられた深夜ドラマみたいに感じられてしまう)。
冨永監督が、画面や俳優よりも(つまり描写よりも)語りを優先させる監督だということは『ビクーニャ』や『亀虫』などの初期作品からかわらないと思う。それは、画面そのものや俳優や演技の力をやや後退させてでも、言葉の運動と、編集を含めた語りの順序や操作性を優先させるということだ。この、語りの優先が、空間と空間、出来事と出来事との驚くような結びつきを生み、それが映画を、予想もつかなかった方向への展開へ開いてゆく。それは、実際の展開であると同時に、そうは展開されなかった無数の可能性をも潜在的に含んだものとしてある。ひとつひとつの細部は、ちょっとした才気を見せるという程度のものであったとしても、その細部を、別の細部へと結びつけ、展開させてゆく、その線の折れ曲がりと複雑さによって、作品はおどろくべきものになる。だから、この作品のように、ある物語の枠組みがあらかじめ限定されてあると、その展開力が十分に発揮されず、面白くもない話を、語り口のユニークさだけで持たせようとしている、自らの才気をもてあそんでいるかのようにも見える映画になってしまうのではないだろうか。そうなると、もともとあった描写の部分の弱さも際立ってしまう。
とはいえ、「やっとるか」「やっとるぞ」みたいな意味のない掛け合いとか、健康道場の空間とか、手紙や館内放送という小道具とか、冨永監督ならば、使いようによってももっともっと展開させることの出来るような要素はあったように思う。
ただ、全体として俳優がコマのように使われるという傾向のあるこの映画で(つまりそれが、描写よりも操作性が優先される、ということだ)、ただ一人窪塚洋介だけは俳優としての存在の強さを示していたように思う。彼がフレームのなかにすっと入ってくるだけで、その「絵になりっぷり」が際立つ。意図的に不自然につくられていると思われる機械的なセリフ回しも、窪塚洋介のセリフだけは、他の俳優とはまったく違った説得力をもって響くように感じられた。
●21日のトークは、USTの中継もあるみたいだ(http://moon.ap.teacup.com/moomhousejunko/)。