●「理解する」という言葉の意味がよく理解できていない。人は多くのことを理解しているし、理解していなければ生きていけない。でもそれは、理解しているというより、「使える」という感じに近い。自転車に乗ることが出来るように、日本語を使うことも出来るが、それは日本語を理解しているからなのだろうか。
ある作品を理解するというのも、よく分からない。この作品がよく分からないと言う時、それは、作品の入り口が分からない、それにどのように触れたらよいか分からない、ということであり、つまりその作品とどのように関係したらよいか分からないということだ。そうでなければ、分からないというのはたんに、興味がない、面白くない、という意味だ。だから、分からないの反対は、「理解出来る」ではなく、「面白い」だと思う。
このエンジンが動く仕組みを理解している、エアコンが空気を冷やす仕組みを理解している、という言い方ならば多少は分かる気もする。しかし、その時の「理解」というのは、その仕組みを他人を納得させられる程度に説明出来るということなのか、それとも、エンジンやエアコンを自分の手で組み立てられるということなのか。あるいは、自分の手では組み立てられないが、しかるべき技術を持った人が、しかるべき材料を持っていれば、それを実際に組み立てられるだけの密度をもった図面が書ける、ということなのか。あるいは、エンジンやエアコンの原理を用いて、まったく別の何かをつくりだすことが出来るということなのか。(作品の構造を「理解する」という時も同様のことが言える。)
原理的に、何かを分節することに限りはない。だから、何かを知ろうとすることにも終わりはない。それをどこまで深く知ることが(分節することが)出来れば、それを理解したと言えるのか。とはいえ、すべてを知らなくても何かをすることは出来る。何かをするために妥当な理解ということならば言えるだろう。医者は人体の全てを知っているわけではないが、治療は出来る。治療が許されるに足りる、妥当な理解の深度というのはあるだろう。人を躊躇無く切り刻むことが出来、切り刻まれる方もある程度納得して身を任せることが出来る程度の理解。だとすれば、「理解する」ことは、「使用する(行為する)」こととの関係(その妥当性)のなかでのみ言えることなのだろうか。
とはいえ、使用とはまったく無関係に、腑に落ちるとか、何かが掴めた、という感触をもつことはある。あるいは、何かが明晰に「見えてしまう」という感じとか。だがこれは、今まで書いてきた「理解する」とは別の何かであるように思う。