●『シャーリー・テンプル・ジャポン』(冨永昌敬)をDVDで。内容も仮のものであり、それをあらわす形式も仮のものである。つまり内容にも形式にもこれでなければならないという必然性はない。いろんな事情が重なって、こうなってしまった、とでもいうようなものに過ぎない。要するに個々の要素の有り様にはほぼ意味がない。そして、そうであればあるほど、冨永監督の映画は面白くなる。
それぞれひとつひとつは仮の、たまたまそこに置かれたに過ぎないものたちを、どのように関係づけてゆくか。それらは、どのように関係づけることが出来、どのように展開し得るのかを探ること。それらを関係づけ、展開を転がすのは作家の操作性であるだけでなく、諸処の都合の重なり合いであり、偶然でもある。そのような現実的状況のただなかで、それを利用し、それに翻弄されつつ、何かをつくりあげてみせる。そういうところが面白い。
●「岬」論、詰めの部分に差し掛かる。二、三日のうちには最後まで行きたい。
●「瀬戸内」とか「あいち」とか行ける人がうらやましい。週に一度新宿まで行く(ツタヤに行く)のも躊躇するくらいお金がない。