●なんかその感じは理解できるとか、その気持ちは痛いほどよく分かるとか、そういうことは理屈抜きにある。理解出来るということは、とりあえずその内実は問わなくても、「理解できる」と感じられる、ということだろう。そのように感じられるということは、非常に重要なことだ。
「その気持ちはよく分かる」と言ったとしても、本当に分かっているのかどうか分からない、という言い方もある。しかし、実際には、本当に分かっているのか、そうでないのかは、けっこう分かるものではないか。いったん「分かる」と思ったとしても、その後、話をつづけるうちに、どうも理解が(あるいは感覚が)ズレている気がすると気づくことはしばしばある。話を詰めているうちに、同意できる部分と出来ない部分とが次第にはっきりしてくる、とか。
とはいえ、まず「分かる」と感じること、腑に落ちる感じを得ることは重要だ。最初に「分かる」と感じることで得た、一種の「信頼」のような感触が、その後、互いの理解のズレや違いを確かめる冷静さを可能にし、違いを許容することを可能にする、そのための「余裕」のようなものを生む。むしろ、共有できる部分よりも、ズレや違いの方をこそ面白く、魅力的に感じるようになるかもしれない。
しかし、そのような共感からはじまる関係とは別種の関係があり得る。それはまず「分からない」というところからはじまる。分からなさは最初、ショックのようなものとして作用する。ショックは、人をはねつけるのと同時に惹きつける。「なんだこれは」という言葉は、否定であると同時に感嘆である。例えば、荒川修作に共感することはできないし、荒川修作を理解することもできない。「なにこれ」とこぼれ落ちる言葉は、まずは半信半疑であり、半ばバカにしているかのような感触が混じっている。興味本位で変人を眺めるように惹きつけられた眼差しは、しかし次第に、そこに比類のない密度と強度があるのではないかという気配を感じはじめる。そこには、自分が知っているものとは根本的に異なる組成による、非常に巨大な知と感覚との構築物が存在し、作動しているのではないか、と。しかし、それはわたしの理解の仕方では吟味できるものでない以上、依然として胡散臭いままであり、半信半疑で接するしかない。
それが、「今までにわたしが知っているもの」によっては理解のきっかけを得られず、接近できないものである以上、そして、そうであるにもかかわらず、そこに何かとてつもなく面白いかもしれないという気配を発するものがある以上、そこに近づくためには、いったん「それ」を全面的に、無条件に受け入れなければならない。その時、中途半端な批判的知性など邪魔なだけであろう。自転車に乗れない人が乗れるようになりたいと思うのであれば、いったん、自転車という機械に自らの身体を全面的に預けなければならない(勿論、それは一挙に出来るものではなく、おっかなびっくり、一進一退を繰りかえしながら、徐々になされる)。しかし、それは決して自転車への妄信ではない。自らの身体を預けることによってはじめて、自転車という未知の機械の組成への吟味(真の意味ので批判)が可能になる(勿論、自転車になど近づかずに一生を過ごすという選択もあり得る)。
「今までにわたしが知っているもの」によってでは接近し、触れることのできないものを、強引に、既に「知っているもの」によって解釈し、理解しようとすること、つまり、共感(腑に落ちる)によって近づこうとすることは危険なことだ。これは決して、「他者は共感不可能だ」ということを言っているのではない。結果として、共感は可能なのかもしれない。いや、おそらく、結果としては共感可能だという気配があるからこそ、それに惹かれるのではないか(しかし、共感可能になった「わたし」はきっと、それ以前の「わたし」とは既に別人になっているのだと思うけど)。分析するという行為は、対象を全面的に受け入れることによってはじめて可能になる。それは、あらかじめ「こちら側」にある「方法」や「構え」や「文脈」を(つまり「わたし」を)その都度壊すということと不可分だ。