●昨日は、川村記念美術館にバーネット・ニューマンを観に行っていた。九月から、東京駅と美術館とを結ぶ直行バスみたいなのが一日に一本だけ出ていて、はじめてそれを利用したのだが、すっごく楽だった。交通費も、たぶん電車で行くより安くなる(東京駅から美術館まで1300円)。一時間くらいで着くし、長距離バス仕様なのでイスとかも快適。乗り換えの心配もないから寝ててもいいし。ぼくはたまにしか車に乗らないので、ずっと外の風景に釘付けで、着く頃には少し疲れてしまったけど。これだったら、お金の都合さえつけば、けっこう気軽に川村まで行けると思った。
●今はちょっと(かなり)違っているのだが、学生の時のぼくにとってニューマンは史上最強の画家だった。初期の頃の大した画家とは思えないニューマンは、ある日とつぜん、一足飛びに「絵画の真実(の一つ)」に行き当たってしまって、そのことに困惑しつつも、結局、突き当たってしまったその真実に殉じた。ある日、「神のお告げ」を聞いてしまった人が、困惑し、一体今のは何なのか、幻聴なのか妄想なのか俺は気が狂ったのかと疑いつつ、結局はその理不尽な「お告げ」に自分の一生を捧げることを「強いられた」みたいなイメージ。それは画家としては非常に貧しく、自由からはほど遠い。しかしそれが真実であり、それに突き当たってしまった以上は、それに殉じる以外の選択肢はない。真実は、その真実の場に人を永遠に拘束する。それが真実であることの途方も無い喜びと、しかしその場から決して逃れることのできない絶対的な息苦しさ。ぼくにはニューマンの作品はそのようなものとしてあらわれた(画集で観ただけなのだけど)。そしてその作品は、画家としての自分が、そのような真実に対し、どのように対処すればいいのか、という問いとして突きつけられた。ぼくはもうこの先ずっと、「ニューマンみたいな絵」しか描けないんじゃないか、というような(それは絶対的な正解であるから、終点−終末である、というような)。今から思えばそれは「若さゆえの思い込みの強さ」というようなものだが、しかし、ニューマンの作品がそのような種類のものであることは間違いないと思う。そのような「真実の拘束」から移動出来たのは、セザンヌマティスの絵について真剣に考えることによってだ。つまり、ニューマン(の「作品」そのものというより、彼が行き当たった「真実−終末−掟」)と拮抗出来る強さをもった作家は、セザンヌマティスしか見つけることが出来なかった。
(おそらくモーリス・ルイスも同じような画家なのだが、ルイスの作品−真実はもう少しやわらかく、ニューマンほどの強い拘束感はない。)
●実際に、何点かまとめてニューマンの絵を観て、それがあまりに「自分の頭のなか」にあるものと同じであることに、何とも不思議な感覚を覚えた。学生の頃、繰り返し繰り返しその画集を観て、これはきっとこんな作品なのだろうと必死に想像し、推測し、それとそっくりな作品を自分でつくりもした、その「頭のなかのニューマン」と寸分違わぬものが、実際に眼の前にある。事前に推測していた感じと、実際に知覚から入ってくる作品とは、必ず偏差があり、その偏差が「今、実物を観ている」というリアリティともなるのだが(こんなにすごいのか、とか、幻滅した、とか)、頭のなかにある作品とあまりにぴったり一致しているので、本当に自分は今この絵の前にいるのかと疑わしくなってしまった。これらの作品は、自分の頭のなかから出てきたものなんじゃないか、今ぼくは、たんに自分の頭のなかにいるだけじゃないのか、というような、転倒した感覚。実際、「夜の女王 ?」という作品など、ぼくはこれとほとんど同じ作品を学生の時につくったことがある。いや、まったく同じとさえ言いたい。なにこれ、俺の作品じゃん、どうしてここにあるの、というような、とんでもなく本末転倒した感覚。まあ、作品の数がもっと沢山あれば、全然違った感じだったかもしれないのだが。
●ただぼくは、ニューマンの彫刻については、どうしてもよく分からない。この彫刻を、どうしてつくらなければならなかったのか、これが、絵画作品とどのような関係にあるのか、が、どうしても分からない。