●書くことと描くことは違う。それは別種の実践である。書くことは、描くことについての説明ではない。描くことについて書こうとしても、双方はどうしてもすれ違ってしまう。画家としてマティス論をやろうと思えば、それは書くことによってではなく、描くことによってしか出来ない。画家であろうが、なかろうが、絵について「書く」時は、たんに「書く人」として、「書く」という実践としてそれを行うしかない。言葉は「描く」行為を説明しないし、言説は「描く」行為をメタレベルとして(上位から)制御しない(描く行為は言説を前提としない)。マティスに触発されて書き、マティスに寄り添って書くとしても、書くことと描くこととは常に平行してしか進行しないだろう。
●もし、書くことと描くこととが交錯し得るとしたら、それは、書かれたものを読み、描かれたものを見る、という行為を通してであろう。書くという行為として書かれ、描くという行為として描かれたものが、ある一人の、読み、見る人の頭のなかに何かしらの共鳴を生じさせた時にのみ、書かれたものと描かれたものとが交錯する。脳−身体−人という翻訳装置。しかし、その交錯という出来事を、書くという行為によって形にするのか、描くという行為によって形にするのか(あるいはまったく別の行為としてそれをするのか)では、まったく別種の実践としてなされるしかないだろう。
●とはいえ、現実問題として、この社会はかなりの程度、言説による政治で出来ている。言葉をもって自己を主張し、言葉によって人を説得しなければ、社会的には存在しないことにされてしまう(書く人として、書くという行為の実践として書かれたものと、社会的な言説の政治の効果を狙って書かれたものでは、同じ言葉でもその組成がことなるのだが、とはいえ、それが言葉である以上は、前者であってもある程度は後者としての効果をもつだろう、だが、描くという行為はなかなかそうはいかない)。だから、ただ描く行為の実践として描く者、そして、そのような行為によって描かれた物も、ある言説によって代替的に表現され、あるいはある言説−文脈に梱包されることによってしか、社会的な位置を得ることができない。これはきわめて不快なことであるが、現実上そうであることは動かしがたい。
だから、ただ描くという行為の実践として描く者も、事実上、そのような言説−文脈にある程度のっからなければ生きていけない、と言えるのかもしれない。しかし同時に、みずからを「勝手に」代替表現し、「勝手に」梱包しようとしたりする言説に対して、「否」というような言葉を繰り返し執拗に口にせざるを得なくなることにもなる。ただ、書くという行為の実践として書き、描くという行為の実践として描く者は、社会的な発言としては「否」という言葉しかもたない、とも言える。しかし、描くという行為そのものは、何かに対して「否」と言うためになされているわけではない。
●現在、コミュニケーションという言葉の意味は、人と人とが交流するための行為ということではなく、自らの存在を社会的に認めさせ、社会的な位置を、得、維持し、拡張するための行為ということになるだろう。勿論、それは必要であり、人が社会のなかで生きる社会的身体としてある以上、誰もそれをしないで済ませるわけにはいかない(事実上、それによって人の生き死にが決まる)。しかし同時に、それは、「それをしないわけにはいかない」という程度のものに過ぎないのではないか。
●芸術は、たんに、それとは別のものがある、ということを示しているだけなのかもしれない。別に、芸術こそが一番偉いなどとは言わないが、それとは別のものがあるのだという点だけは譲れない、と。