●例えば、平均台とか平行棒とか跳馬とか、そういう種目の有り様や、技の難易度の設定とか採点基準とか、そういうものは、人工的、恣意的、制度的なもので、それは体操競技という狭い世界でしか通用しない、その競技に固有な発生と発展の歴史とか、その世界の内部の力関係や権力闘争の結果としてあるものなのだが(それがいかに世界のなかで広範囲で行われ、競技人口が多く、多くの人に愛され、多くのお金が動いていたとしても、明確な限界−確定された領域をもつという意味で)、だけど、幅の細いところできれいに宙返りして着地出来るとか、一本の棒からもう一本の棒へかっこよく飛び移れるとか、そういう能力そのものは、世界(重力)と身体の関係の有り様として、より普遍的で、普遍的という言葉がまずいのならば、より広く、大きく、根本的なもので、で、体操競技とかサーカスとかアクロバットとかそういうジャンル(という限定された制度)は、その、より根本的な能力を、この現世的な社会のなかで「形として見えるようにする(形として出現させる)」ための支持体に過ぎない。
それぞれの支持体−制度は、その時代によって、新たに発生したり、栄えたり、衰弱したり、硬直化したり、亡びたりするのだし、一人一人のプレイヤーは、そのような支持体−制度の内部で何かをするしかないのだけど、しかし問題はそっちの方にあるのではなく、あくまで、よりうつくしい宙返りの実現や、新たな世界(重力)と身体との関係の創出の方にあるはずなのだ。だから、特定の支持体−制度への(それにとっての正統性への)過剰な最適化が必ずしも良いわけではないし、同時に、ある支持体−制度の改革や解体そのもの(政治)が自己目的化するのも本末転倒なのが、とはいえ、ある特定の支持体−制度を抜きにして、「新しい世界(重力)と身体との関係(の可能性)」が虚空にいきなりぽかっと浮かんでいたりもしない。けっきょく、何かしらの既にこの世に存在する支持体−制度を手がかり、足がかりにしてはじめるしかない。しかし、探求されるべきものは、そこにはない、その向こう側にあるもの、ということになる。
つまり、ある可能性なり潜在性なりに実際に形を与える「支持体」、支持体によって可能になった具体的な「形象」、そしてその形を周囲の環境的な連続性から切り離す「フレーム」等があって、そこではじめて、そこに把捉されない潜在性や普遍性やが見出される。ある形は、形そのものを表すというよりも、その形から逃れ去るもの(動きや力)をこそ表す。
だが本当は、新しい「世界(重力)と身体との関係」を生み出し、見えるように形にするためには、それに相応しい新しい支持体−媒介そのものを、同時につくりださなければならない、ということになるのだが。それは、今、この世界のなかには存在しないモノについての探求であり、どのような地図にも書き込まれていない場所を探すことであるはずだから、当然、雲を掴むような、分けの分からない、胡散臭いものとならざるを得ない。だから誰も、その試みを(何かが出来てしまうより前に)正確に理解し検証することは出来ない。つまり、事前に理解出来、検証出来るレベルで何かをやっていても、そこには至れない、ということになる。