●バーネット・ニューマンの絵は、まったく「見えたそのまま」、「見たまんま」の絵であり、徹底的にそうであることによって際立ったている。フレームがあって、その真ん中に帯状のものがある、それだけで既に十全な絵であり、そこに何一つ付け加えるべきものはない。なぜか知らないが、それは決定的なものであり、動かしようがない。そこに言葉が入り込む余地はない。
ニューマンがすごいのは、自分がたまたま行き着いてしまった、その決定的な何かの場に、生涯、誤魔化すことなく留まり続けたところだと思う。ニューマンによって発せられる過剰な言葉たちは、すべてその決定的な何かに向けられており、しかし、その前では無力に「当たって砕け」、または闇に「吸収され」ているように思われる。ニューマンは、自身の作品が行き着いてしまった何かについて、言葉を使って考えつづけながらも、制作そのものは、その言葉に惑わされたり、引っ張られたりすることなく、一貫して、最初にたどり着いてしまったものの衝撃(見えたまま)に忠実であった。それは作品そのものが証明している。
だが今日の我々は、ニューマンよりは多少は、ニューマンの作品の謎に近づき得る材料を持っているように思う。例えば、認知科学における「正中線」についての知見。
《つまり正中線を引く行為は、左右対称形の身体をもち、左右対称を活用しながら移動する動物にとって、本来的な働きであることになる。そもそも視野そのもの(現れそのもの)が左右対称に出現することに、身体行為と感覚・知覚の運動する体験領域が関与している。正中線を引く行為は、視野の真ん中を知ることではない。知る以前に視野はそもそも左右対称で現れてしまっている。この視野そのものを成立させる場面で、正中線は引かれてしまっている。こうした正中線を引く行為は、あまりにも自明で大きな体験的前提であるために、意識をつうじた現れの分析だけからでは取り出せない。》
正中線を引く行為は、既存の現象学の分析では、おそらくいまだ一度も語られたことがない。というのも現れそのものを成立させている規則でもなければ、現れを構成するような規則でもないからである。そうした規則は、身体行為とともに世界にかかわってしまう場面ですでに出現してしているのであって、その元に現れはおおむね左右対称になる。》
《このレヴェルのカテゴリーはたくさんあると思う。荒川修作さんのいう「ランディング」もそうである。たとえばまなざすことは、何かを知るだけでなく、またノエシスノエマのような世界との距離をもった認知の相関ではなく、まさに世界において「ここ」という位置を占める行為であり、まなざす先を「そこ」として位置を指定する行為である。一切の認知には、「ここ」「そこ」という位置を占め、位置を指定する行為が同時にともなっている。》
(「病と経験の可能性」河本英夫
これはほとんどニューマンの作品について書かれているとしか思えないのだが…。正中線を引くということは、たんに視覚の中心、身体の軸を定位するということではなく、世界とその中にある身体とが、正中線の定位とともに立ち上がるということであり、つまり、世界があり私の身体があるという時、既に正中線は定位されている。正中線以前に私(の身体)は顕在化しない。そしてニューマンの作品はまさに、正中線を引くことと、まなざすことで「ここ」と「そこ」を定位することといった、ある身体が、その周囲の環境である世界と共に立ち上がるという経験の、それを成り立たせる基底的条件を、その立ち上がりの瞬間を、ほぼ、ただそれだけを表しているとさえ言えそうだ。それは意識的に「知る」ことは出来ず、「知る」ということの条件としてそれに先だってある。だからニューマンの絵は、世界の出現そのものを表しており、ただ、それのみを表している。
そしてこの条件は、人間だけに当てはまるのではなく、視覚を持ち、左右対称の身体をもったすべての動物にも当てはまるものであろう。だから、ニューマンの作品の出現は決して「美術史上」の事件なのではなく、もっと大きな射程をもったものなのだ。それは、ある種の動物における、その経験を成立させる基底的な「形式」が(形式だけが)出現してしまった、ということなのだ。ニューマンの作品の形式性とは、絵画の形式のことではなく、少なくともそれ「だけ」ではなく、動物における世界と身体との定位の「形式」なのだ。
(勿論、ニューマンの作品に美術史的側面が皆無だということはあり得ないし、正中線だけでニューマンの作品の全てを説明出来るなどとは言えない。例えば色彩のことなどについては、それでは何も言えていない。)
ニューマンの言葉を聞くと、ニューマン自身も、自分の作品が、人体との関係においてあること、それが左右対称であることと深くかかわりがあるということろまでは突き止めていたみたいだけど。
●例えば、何かしらの脳の障害によって、視野の左半分が見えにくくなるといった「半側空間無視」という症状の人にとっての「正中線」の有り様について、同じテキストに次のような記述がある。
《患者に植物の葉っぱを書いてもらうと最下層の二つの葉は左右とも描かれることが多い。その二つが描かれるとそれより上の葉っぱは、右側しか描かれなくなる。つまり正中線がなんらかの動作で決まると、それに対して左側に注意が向かなくなるのである。》
つまり、正中線の設立は、経験に先立って経験を成り立たせるもので、経験以前、意識以前に行われることであるが、だが、その設立は何かしらの行為によってなされる、ということ。そして、それは行為をし続けるなかで、何度も設立し直される、ということだろう。おそらく、身体の左側半分を捉え難くなった人は、そのような症状を抱えて生活するなかで自然に(無意識に)正中線を左側へとずらすことで世界と身体との関係の食い違いを調整している。だが、左右対称の双葉を描いてしまった瞬間、その中心に正中線が立ち上がってしまい、すると、その途端に左側が見え難くなる。このこと(身体的行為による正中線の再設立と、そのズレ込み)も、ニューマンの作品(フレームのこだまのような複数のジップ)とすごく密接に関係していると思う。