●「偽日記」は今日でまる十一年、明日から十二年目に入ります。だからといって特に何もないですが。
●自由というのは、何でも好きなことが出来るような状況のことではなくて、ある条件があり、ある規則が与えられ、多くの人が、そのなかではこのように動くほかやり方がないと思い込んでいる時に、その条件のなかで思ってもみなかったまったく別の動き方を発見してみせることであり(だから、自由は常に、正統からみれば邪道であり反則技であろう)、その可能性のことだろう。そして、その「別の動き」そのものが、予め与えられていて動かせないと思われていた条件そのものさえ、別様なものに変えてしまうかもしれない。だから自由は、その都度の何かしらの新たな創造なくしてはあり得ない。つまり、何かしらの創造さえあれば自由は常に、いま、ここにあり、しかし、それがなければ、どんなに好条件に恵まれていても、何もないのと同じ。自由は持続せず、その都度、改めて実現し直されなくてはならない。
●「形」をどのように見出すのか、あるいは、「形」をどのようなものとして捉え得るのか。画家としてのぼくにとって、この二十年くらい、このことはずっと大きな問題でありつづけている。抽象表現主義の多大な影響のものに絵を描き始めたぼくは、簡単に「形」を描くわけにはいかない。なぜならば「形」とは、既に図と地との関係が安定的に作動した上ではじめて立ち上がるものであり、言うなれば、「形」がある時点でその絵の構造−基底は固定してしまっている。固定した、既にあるものとしての基底の上で(それを前提とした上で)、いかにうつくしい形を、いかに面白い、多様な(今風の、キャッチーな、最新流行の)形を作りだしてみたところで、それはあらかじめ与えられた舞台の上で踊っている(踊らされている)だけであり、世界そのものへの介入ではない、メタレベルでの世界の図示でしかなくて、それでは(世界に対して)何かをつくり出したことにはならない。
昨日の日記に書いたような、まさに「世界のあらわれの形式」そのものを、ただそれだけを描き出してみせたニューマンの作品は、ぼくにとっては最大のトラウマと言える。
●勿論、だからと言って、抽象表現主義をただ反復するように、世界の現れの形式そのものを、つまり空っぽのフレーム(あるいは、フレームの可塑性そのもの)を、ただそれだけ示すことをつづけてみても、それはたんなる深刻ぶったポーズに過ぎず、美学的な「図の乱舞」よりもさらに、より不毛なことでしかないだろう。
●しかし、最近思うのは、「形」というものは、決して固定的なものでも静的なものでもないんじゃないかということだ。少なくとも、「良い形」は。良い形というのは、たんに美しい形ということではない。良い形とは、無数の、次元の異なる力の折衝によって、結果として「そのようなものになった」という風に生まれるものだ。つまりその時に、「形」が示すのは、その形そのもの、その美しさ、複雑さ、ユニークさではなく、その形をつくりだしている諸力の絡み合い、その混合こそを、その結果としての「形」が表現する、ということになるのではないか。
●ぼくは今まで、形について勘違いしていたのではないか。つまり、形が「形(図)」として固定化しないためには、形を閉じてはいけなくて、「形」を、常にどこか開いた、完成していない状態(つまりそれは、形と共にあり、それを浮かび上がらせるフレーム全体の構造を完結させない状態)で示さなくてはダメだと考えていた。しかし、その形が「良いもの」であれば、輪郭線として閉じられていても、そして、閉じられた形がフラットにベタ塗りされていたとしても、それは決して図として(地−図構造に)閉じることはないのではないか。というか、図と地という構造が成立する以前にある「形」というものがあり、その時、図として(見えもする)その形そのものが、それだけで(フラットな平面上の図と地という関係に還元されない)多様な次元を横断的に貫いている、ということはあり得るのではないか。
●例えば、あるスポーツ選手のプレーのしかるべき瞬間を写真に撮ったものを、その姿を黒く塗りつぶして、そこから切り取り(つまり、空間−文脈の連続性から切り離し)、まったく別のもの、例えばベニヤ板に貼り付けたとしても、その「形」そのものが、その選手のプレーに含まれている多様な作用や力、空気抵抗や重力と身体の関係、骨の硬さが身体を支え、身体各部の無数の筋力の調整によってバランスが保たれ、それらを貫く一瞬の判断力が場−文脈を切り裂いて行くその力動の感触を、その全てを分析的に抽出することは出来なくても、諸力の絡み合いの度合いの感触として、眼は(その競技そのものをまったく知らない眼でも)感じ取ることが出来るはずなのだ。その形そのもののなかに、凡庸な選手の凡庸なプレーによって得られた形とは別のものを見出し得るはずなのだ。そして、そのようにして得られた諸力の混合を含み持つ「形」は、まったく別の文脈によって得られた(縮尺なども異なった)別の形、例えば、トビウオがジャンプする形がもつ諸力の混合と、ベニヤ板の上で、空間や文脈を超えて響き合い、新たな関係を作りだすことができるはずなのだ。形そのもの(のもつ諸力の混合の具合)が、統一の地の形式を超えて(その調整、地ならしを必要とせずに)直接的に響き合い、合成され得るとすれば、それによって新たな「地の形式(基底となるもの)」がそこに生み出されているということになるはず。
●つまり、地があって図がある、あるいは、地−図という構造があってはじめて図=形があるのではなく、地−図という構造に先立って、そこに半歩くらい先走って、複数の文脈を貫く(図になる寸前の)「諸力の混合としての形」があり、それが新たな地−図という構造の有り様を導く、というようなことが可能なのではないか(セザンヌの筆触というのも、結局はそういうものなのではないか)。
そのような「形」を、なんとか描けないものだろうか(捉えられないものだろうか)、と最近考えている。
●ここまで書いて気づいたのは、ここで「形」と言ってきたものを「イメージ」に入れ替えると、ほとんどシュールレアリズムになるなあ、ということだ。でもここではあくまでイメージではダメで、イメージになる前(寸前)の「諸力の混合」の感触が生々しく残っている「形」でなければいけないと思う。