●今日はけっこういい感じのドローイングが描けた。いままで描けなかったような線が描けた、というか、線自体はあまり変わらないとしても、その線の組織の仕方が今までと違っていて、つまり今までとはちょっと違う感じで絵が描けた。
まあ、たまたま描けちゃったという感じなのだが、たまたまであろうが何であろうが、それはぼくが実際に自分の身体を使って描いたことにかわりはなく、ということは、それを描くために必要なものが潜在的に既にぼくのなかにあったということで、あとは、それを今後どうやって引き出すことが出来るのか、ということになる。つまり、たまたま描けた、のではなく、たまたま出てきた(出てきてくれた)、ということだ。
実際、たまたま絵が描けてしまうということはあり得ない。たまたま、良い線が一本引けてしまうことはあっても、その線を、一枚の画面のなかで有効に機能させるには、その線に対するもう一本の線が必要となり、さらにその二本に対する三本目が必要となるから、その三本を「そのように」制御する何かが、無意識のうちにでも働いていなければ、二本、三本と線が追加されてゆくにつれて、「今まで通り」の線の制御へと着地してゆくことになる。最初に引いた線にあった潜在的な可能性を、二本目、三本目においても持続させつつ、発展させてゆくことが出来たから、「今までとはちょっと違った絵」となった。とはいえ、その(潜在的にはあるはずの)「何か」が、一生に一度しか出てきてくれないということも勿論ありえて、そういう時に、「あれはたまたまだった」というしかなくなる。
●夕方、メールで柴崎さんの野間文芸新人賞受賞を知る。
寝ても覚めても』は「文藝」に掲載された時に読んで(実は、それより前のプロモーション用の?ゲラの段階で読んで)、それっきりで、本になってから読み返していないのだけど、それは、この小説が相当ヘビーで、読んでいるといろいろ「持って行かれる」ので、ある一定の覚悟なしに気楽に読み返せるようなものではないから。
この小説がすごいのは、読んでいると、書かれていることの方が気が狂っているのか(世界の方が歪んでいるのか)、それとも、それを読んでいる自分の頭の方の気が狂っているのがか分からなくなってくるところだ。自分の頭の内側と外側との区別がつかなくなる感じというのか。それは、この作品がもつ、作品内世界と作品外の「この世界」との関係が特異であることによるのだと思う。その特異さは、作品の構造として仕掛けられているというよりも、場面、場面の密度のある記述の底に、いわば「忍び込まされている」かのようにある。読んでいると、自分が『ドグラ・マグラ』の主人公になってしまったかのような感じになる。『寝ても覚めても』が『ドグラ・マグラ』に似ているということでは全然ない。『寝ても覚めても』を読むことで、『ドグラ・マグラ』の(作品を外から「読む」のではなく)「作中世界のなか」に入り込んでしまったような密度をもった世界体験をする、ということだ。
荒俣宏が出てくる場面とか、ディック的に世界が歪む(曲名やブランド名まで含めて、作中人物以外の固有名が一切出てこないこの小説で、唯一、荒俣宏だけが固有名で出てくるので、この、実在する人物の固有名が、異次元からの使者であるかのようにも感じられる)。