●制作は大抵、起きてすぐはじめる。目が覚めてすぐが、頭が一番新鮮な状態である気がする。起きて、コーヒーを飲んで、少しずつ頭が目覚めてきたら、キャンバスの前まで移動して、いきなりはじめる。制作途中の作品に手を入れる時は、コーヒーを飲みながら画面を眺めて、どこから、どのように入ってゆくべきなのか探って、それが見つかってから手を入れるのだが、作品に最初の一手をいれる時は、いきなり入る。この、いきなり感はとても重要で、最初に入った時の感じは、その作品の方向性をほぼ決定してしまう(方向性があらかじめ見えているのではなく、一手目のあり様が、結果としてそれを決めてしまう)。最初の一手は、すべてのはじまりであると同時に、それがそうであるという根拠がない。二手目以降からは、前の手との関係で決まるから、そこには根拠が生まれるが、最初の一手には、「入っていこうとする感じ」「入れそうな感じ」以外のものは何もない。最初の一手は純粋に最初の一手であって、想定される二手目から遡行的に割り出された一手目ではないし、先に進むべき明確なビジョンがあってそこから逆算された一手目でもない(しかし、形にならない、イメージ以前の先行きへの予感のようなものはあって、それがきっと「入っていけそうな感じ」として出力されるのだろう)。このことは、線の仕事も色彩の仕事もかわらない。
●ぼくは、色彩派とデッサン派というような分け方には懐疑的だ。それは多分に、色彩派と、そこから仮想敵として抽出されたデッサン派という分け方に過ぎないと思う。画面のなかに線が引かれる時、それは決して輪郭線として引かれるのではない。線は、空間のなかに引かれる、あるいは、線を引くことが空間を立ち上げるというようなやり方で引かれる。線は、形をとるのではなく、空間を探る。輪郭線に見えるものも、それが結果として輪郭線として機能するところに着地する、というに過ぎない。オーソドックスなデッサンでも、例えば斜め前からの顔を描く時、まず額から頬、顎の位置を決める線が引かれ、それに対して、(輪郭線側ではなく、内側の)耳や頬骨の位置を決める線が引かれ(これによって斜めを向いた顔の前面となる平面が立ち上がる)、その二つの位置に対して後頭部の位置を決める線が引かれ(これによって顔の、ごろっとした塊としての丸さが掴まれる)、次いで、首の後ろ側、鎖骨、首の前側…、といった感じで人体が構成する空間を(飛び飛びに)探りつつ線によって位置を決めてゆく。だからこれは、三次元座標のなかで立体を構成してゆくCGなどとはかなり違った、時間的展開と空間の非連続的な飛躍-断絶を伴った過程で、つまり、西欧絵画のオーソドックスでアカデミックなデッサンでさえ、その制作過程は既に幾分かはセザンヌ的なのだ。
これは、普通に具象的な線(たとえば人物のクロッキー)でも、具象的な形象には着地しない線でも、何の違いもない。さらに、この点については、色彩のタッチを画面に置く時と、線を引く時とでも、何らかわりはない(もちろん、タッチによって空間を探るやり方と、線によって探るやり方とはまったく違うのだが)。