●こういう言い方が良いのかどうかわからないが、『ユキとニナ』(諏訪敦彦・イポリット・ジラルド)はDVDに特典としてついているメイキングを観た後で改めてもう一度観てみると、その面白さが増す。諏訪監督はずっと、混じり合うこともかみ合うこともない二つの力が拮抗したり、ぶつかり合ったりする様をカメラにおさめ続けてきたと思うのだが、この作品では、カメラの前にある対象だけでなく、カメラの後ろの監督まで二つに分裂してしまっているのだ。
メイキングで映し出されるのは、ある場面の評価について、その場面が演じ終えられたすぐの、出演者もスタッフもいるその場で、二人の監督がああでもないこうでもないと延々モメている場面だ。日本語とフランス語で間に通訳をはさみながら。監督という中心が二つになって、軸がぶれている諏訪敦彦は、この場面が完璧ではないとしても、すばらしい瞬間が捉えられたのだから、それをひろうべきだと主張するが、イポリット・ジラルドは、お前はフランス語が分からないから今の演技のわざとらしさがわからないんだ、この場面はまったく使えない、と言う。つまり、ここでの共同監督というのは、二人の力を合わせてより良いものをつくろうというのではなく、はじめからかみ合わない二人が、そのかみ合わなさをどのように調整して一本の映画を仕上げることが出来るのか、そしてその時、映画はどういう形のものとして出来上がるのか、ということが問われているのだと思う。議論をしてより良い答えを導き出す、というのではなく、二つの混じり合わない力のぶつかり合いのなかから、結果としてどのようなジグザグした軌跡をもった線が立ち上がってくるのか、それをやってみる、ということなのだと思った。そこではその段取りや過程こそが重要であり、いわゆる「作家性」を強く押し出すような完璧主義の対極にある感じ。
でも、そういうのってすごく危険で、えてして、どちらの監督の意にも完全には沿わない、どっちつかずで中途半端なものが出てきがちで(おそらく、一人の監督が強引に自分のやり方を通す方が、「効率よく」あるいは「確率高く」良いものが出来る)、実際この映画でもそういう部分はあると思う。しかし、そういう部分まで含めて、この映画はこのようにしてある、ということなのだと思う。