磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』(「群像」一月号)。今、バタバタしているので、年末にでもゆっくり読もうと思っていたのだが、昨日ギャラリーにいて、お客さんが途切れた時に不用意にも読み始めてしまい、「あっ、これヤバイ」と思って、そこでは半分でやめておいて、残りの半分を今日読んだ。磯崎さんは、たった一人でまったく別次元を突っ走っている、という感じがひしひしと伝わってきて、そのことに撃たれる。
大ざっぱに三つの部分に分けられると思うのだが、その最初の部分の濃さが半端ではない。書かれていることやその調子はいつもの磯崎調とかわりはないとはいえ、それをここまで高密度に凝縮して書くのは、磯崎さん自身にとっても未知の領域だったのではないだろうか。この最初の部分の密度が、いつもの二倍の長さの持続を支えているのではないかと思った。
●タイトルや書き出しから容易に想像されるような分身の話ではまったくない。しかし、タイトルの意味や書き出しは、ちょっときれいすぎるかもしれない「結び」によって、容易に想像されるものとはまったく違った意味で回帰する。この危うさは磯崎さんの小説のスリリングなところでもある。例えば『眼と太陽』では、「遠藤さん」が主人公の分身であるかのように匂わせるラストにしようと思っていたのだが、最終的にそれはやめにした、という話を本人から聞いたことがあるのだが、「しようと思ったが/やめた」という揺れ幅のなかにこそリアリティがあるように思う。それは確かに分身的な何かなのだが、それを分身という分かり易い形に落とし込んでしまうと、リアルさが消えてしまう。
『眼と太陽』の途中に挿まれる「遠藤さん」の長い独白は、それが主人公の過去であってもまったく構わないものだし、実際読んでいるとそのように思えてしまう。そのような、人物間の交換可能性の感触は磯崎さんの小説の至るところに感じられるのだが、それは、人物の、分身的、鏡像的な分離、増殖であるという気配でもあるが、それだけではなく、人物や時空の違いを超えて「出来事」が通底しているという感触でもある。私と同じような人物が(私であったかもしれない人物が)、ここにも、あそこにも居るという感じと、まったく異なる人物たちの間を、同じ出来事が貫き、反復してゆく、という感じ。この、微妙に異なる二つの感触が、その微妙な差異を保ち続けたまま共存していることが、磯崎さんの小説の、スケールの大きな時間をその外側から俯瞰しているようであり、しかし、その出来事の一つ一つは、先の予想できない時間の内部から描かれ、生きられているようでもある、という、独自の感覚を生んでいるのではないだろうか。そして、この分離した感触の行き来は、本作ではいままでになかったスケールの大きさと、行き来の自在さを獲得しているように感じられた。
●それにしても思うのは、なぜ、こんなに荒唐無稽で、悪く言えば、展開は乱暴で、その場その場の思いつきを並べたみたいな話が、こんなにリアルに感じられるのだろうか。それはおそらく、このような形式によってはじめて、現実的な諸条件、諸法則、諸原理による束縛から切り離された、出来事の純粋性のようなものが抽出され、浮かび上がるからではないだろうか。
展開の唐突さ。例えば、嵐の海の上にいたはずのコロンブスが、行替えもなしにいきなり、陸地からこちらへやってくる船を見ていることになるという、あまりに乱暴なモンタージュは、しかし、それを手法とかテクニックとしてみるならば、現代小説においてはそれほど驚くべきことではない。あるいは、チョコレートという主題を設定することで、時間や空間を越えた、大胆な、場面やエピソードの接続が可能になるといった手法も、手法それ自体としては別に目新しくもないだろう。そういうことよりも、なぜか分からないが、主題はチョコレートでなければならなかったのだ、ということの感触と必然性を、この小説を貫く、ある種のノスタルジックな調子との関係において、正確に受取ろうとすることの方が重要であるように思われる。
一見、時空を自由に超越しているかのような本作が、しかし一方で、明確に日本の戦後史的な、昭和の雰囲気を濃厚に帯びていることは無視できない。しかもそれが、現実的な(あるいは象徴的な、共有される)事件を通してではなく、あくまでフィクションの造形としてなされているところにこそ、そのリアルさがあるように思われる。そして、本作における高度成長期の工場労働者の労働の感触と、例えば『終の住処』で描かれる、バブル期の会社員の労働の感触が、その内容が大きく異なりながらも、通底する同様の感触-出来事として掴まれていること、その通底する「同様な感触」そのものリアリティこそが、磯崎さんの小説の(強引な接続の)根底を支えているようにも思われる。つまり、個々の出来事-場面のもつ確かなリアルさが、説明や現実的秩序(基底的な時空)を越えた大胆な接続や飛躍を可能にし、そして、現実的諸規則にのっとらない大胆な接続や飛躍が、個々の出来事-場面のもつリアルさそのものを、それが囚われている枠組みや文脈から切り離し、その力を純粋に際立たせる。
本作において、工場労働者として働く兄と、小説家として、そのような労働から遠く離れる妹(兄は妹によって命を救われ、妹は兄の家庭から力を得る)という関係は、会社員でもあり、小説家でもある磯崎さん自身の分裂を示しているということは容易に読み取ることが出来るだろう。しかし、その分離-共存もまた、労働者/小説家という外側から枠づけられる役割(キャラクター)によってではなく、それらを通底する(内側から生きられる)出来事のリアリティによって支えられているように思われる。
出来事のリアリティは現実(時間・空間・文脈)の外にある。この事実が、磯崎さんの小説に、俯瞰と内観との共存(あるいは、強引な接続)を要請し、それを実現させているように思う。