●昨日泊めてもらった吉尾さんから聞いた話のメモ。この話は前にも一度聞いたことがあるのだが、細かいところは忘れてしまっていたので、忘れないうちに書いておく。
吉尾さんが新入社員にいつも言うという言葉。「クリエイターに必要なのは、UFOとパンチラと幽霊だ」UFOとは、超越性への指向であり、高みを見上げる姿勢で、パンチラとは、時間的にも空間的にも、目の前にある(直近の未来の予測まで含む)現在への洞察力であり、そのなかで好機(パンチラ)を見逃さない俊敏さのことで、幽霊とは、背後にあるもので、自分の経験、そしてそこにとどまらずジャンルや世界の時間的な蓄積のなかから生まれる想像力のことだ、と。だからこれは、未来・現在・過去と言い換えることが出来るし、または、信仰・運動神経(動体視力)・時間的蓄積と言い換えることもできる。しかし、これは、たんにそれらの面白おかしい言い換えという以上のものがあるように思う。分かり易く(通じ易く)言い換えてしまうと平板になって消えてしまうものが含まれている。
例えば、信仰や超越性をUFOと言い換えることには、それらのもつ本来的、不可避的ないかがわしさの感触が含まれている。信仰は常にいかがわしく、信仰が信仰であるためには、正統性や正しさ、理知的分節からの逸脱が不可避的に求められる。極端なことを言えば、それは常に(人の欲望を弄ぶような)インチキである(部分を含む)とさえ言える。だが、インチキであることによってしかとらえられない、ある「真」が存在する。おそらく、そのようないかがわしい真によってだけ、人は未来との関係をもてるのではないか。
(また、幽霊=歴史が、固有の場所、固有の出来事との結びつきがある、あるいは、固有の文脈があった上でのそこからの逸脱であるのに対し、UFOははじめから非場所的、あるいは非定位的であり、あらゆる文脈的把捉とは無関係に、その外に浮遊する(その外として機能する)決して確定できない何かである。
あるいは、現在に対する動体視力と運動神経(パンチラ)は、それを見る者の、無意識まで含めた欲望のあり様に強く束縛され、規定される。意識的制御-操作によるものではなく、勝手にそっちに目が行ってしまう、という形で作動する。)
パンチラとは、例えば木村敏的に言えば分裂病的なアンテ・フェストゥム的時間性であり、幽霊とは、うつ病的なポスト・フェストゥム的な時間性のことだと言える。あるいは、中井久夫的に言えば、パンチラとは、微分的、徴候的な空間性であり、幽霊とは、積分的、索引的な空間性のことだと言えるだろう。ここにUFOが加わるのは、精神科医は、現実に存在する患者(既に存在してしまっているもの)に対する関係(あるいは責任)として生きる人であるが、アーティストは、未だ存在しないものに対する関係(あるいは責任)として生きる人であるという違いによるのかもしれない (精神科医については何も知らないので非常に雑な図式化でしかないけど)。アーティストが、「未だ存在しないものとの関係(あるいは責任)」として生きる以上、必然的に、「正しさ」の内部に収まることは許されず、いかがわしく、胡散臭い存在へとはみ出すしかないだろうと思う。
例えば、清水崇監修のテレビドラマ『怪奇大家族』で、霊能者の一家のなかで血のつながりのない婿である父だけが、幽霊を見ることが出来ない。家族のほかの者にとっては幽霊の存在や心霊現象は当然の前提であり、日常的な出来事でしかない。つまり家族にとって幽霊は、吉尾話においては幽霊ではなくパンチラに属する。パンチラを見ることの出来ない父は、いわば現在に対する現実的に有効な運動神経(動体視力)を欠いている(現実的現在において欲望を充足させることが出来ない)。しかし父は、自身として霊能力を持たないからこそ、家族が持たないもの、つまりUFOや心霊現象に関する体系的な知識(幽霊)と、それらへの強いあこがれと信仰(UFO)を持っている。そして、この、父の知と信仰は、そのまま、それらのいかがわしさ、胡散臭さ、役に立たなさを表現してもいる。しかし、父による知と(特に)信仰がなければ、この物語は動き出さないであろう。