●アナロジーというのが気になる。メタファーでもシンボルでもアレゴリーでもなく、アナロジー。もしかしたらぼくは、通常、アナロジーという言葉に込められている意味を大きく逸脱したものまで含めて、そう言っているのかもしれないのだが。
ここでアナロジーというのは、相互にまったく関係のないもの、まったく異なるそれぞれ独立した文脈上に置かれたものの間に、とつぜん、ある関係を見出してしまう、というようなこととして言っている。だからその関係は抽象的であり、あるいは形式的であり、あるいは直感的である。それは、関係を発見するということであると同時に、関係を発明-創造するということでもある。
通常、アナロジーとは、ある既知のものによって、未知のものを理解する助けとする、というような意味であろう。既知のものを構成する諸要素の関係から類推して、未知のものを構成する諸要素の関係を推測し、その把握の助けとする、とか、あるいは、既に解決済みの問題における、問題の構成とその解決の導き出し方から、未解決の問題を解決する方法への導きを得る、というようなことであろう。この時、影響は既知から未知へと波及する。しかし、既知のもの助けによっていったん未知のものが把握されたとき、逆に、その未知のものを理解したことによって、そこからの波及によって既知だったものの理解にも揺らぎが生じ、既知が改めて把握され直し、その理解に変質があらわれる、ということもあり得る。既知→(未知→既知)という方向だけでなく、(既知→変化)←(未知→既知)という遡行的効果による相互影響関係が生まれる。あるいは(既知⇔未知)⇔(未知⇔既知)といった流動的で明滅的な関係が成立する。つまり、二つの(無関係な)項の間に関係が見出されること(直感されること、発明されること)によって、一方だけではなく、双方がともに変化する。関係によって関係項のあり様が変化する。ここではそういう関係のイメージをとりあえずアナロジーと呼ぶ。
●言葉と実践、語ることとすることとの関係がややこしくなるのは、どうしても語ることには「意味」が介在してしまうからだと思う。しかし、意味のない、純粋な「語ること」には、文字通り意味がない。
●例えば、哲学が「技術」について語り、その具体例として「絵画の技術」について語るとしても、それは「技術一般について語る」ための、あるいは「ある世界像」を構築し提示するための、抽象化された「絵画の技術」であって、画家のための絵画の技術ではなく、絵画の実践にはそのままでは有用でない。しかし、それをアナロジーとして掴み直すならば、画家にとっても有用な刺激となる得る場合もある。もしくは、水泳選手にとってさえも有用であり得るかもしれない。
●ここで起こっていることとは何か。哲学(概念)と技術との間にアナロジーが成り立ち、私にも、自分が実践する技術に対するアナロジー把握があって、その時さらに「哲学と技術のアナロジー」と「技術と私のアナロジー」の間にもアナロジーによって関係が(それぞれ個別の、具体的な技術的現場にいる「私」によって)掴まれることで、私が実践する技術に対する何かしらのヒントや気付きが与えられる、ということではないか。
●ここで、哲学者が語る絵画の技術が、水泳選手にとってもヒントとなり得る、というのは、案外分かり易いし、実は実際にそういう出来事は起きやすいように思う。つまり、はじめから異なっていることが双方にとって自明であるから、それはアナロジーとしてのみ把握可能であることが了解されている。つまりあらかじめ抽象的、直感的関係しかありえないことが前提とされるので、意味や具象性にひっぱられる度合いが低い。しかし、哲学者が語る絵画の技術を、画家である者が読む時には、なまじ、意味としての関係がある分、画家は、なんだこいつ、全然見当違いのことを言ってるぞ、デッサンの一枚で描いてみてから言いやがれ、などと反感を感じてしまう。言葉の具象的な意味にひっぱられてしまう。
●言葉には、ほとんどの場合に意味がつきまとう。しかし言葉は、そこで言われ、書かれている意味以外-以上のことを常に語っている(いや、意味以外のことを「こそ」を語っている)。それを捉えるためには、いったん「意味」を少し後退させてやる必要がある。それによってはじめて見えてくるもの、それによってしか聞こえてこないことがある。それが把握された時、語る言葉(あるいは、語る主体)と、語られた対象との双方が、同時に、新たな出来事として生まれ変わって現れてくる。「語ること」の重要性はおそらくそこにあり、説明や表象や説得にあるのではない。しかし、意味を完全に後退(消滅)させてしまったら、文字通り「意味がない」ことになってしまう。
●ぼくの描く「plants」シリーズが具象的に「植物を描いている」というわけではないこと、それでも、そこには植物の何かが転移しているということ(あるいは、植物の存在に触発されて描かれていること)、「Geography」シリーズが具象的に風景や地形を描いているわけではないこと、しかしそこには具体的な土地の地形の痕跡が刻まれていること、の意味は、このようなことに近い気がする。
現象的、具象的、意味的には、必ずしも植物に似ていないからこそ(植物という意味から半歩後退しているからこそ)、「植物」と「カンバスと絵の具の関係」との間に、より緊密で直接的な、そして相互影響的な関係がつくりだせるのではないか、と。
●とはいえ、アナロジーは実践-技術そのものではない。植物に触発されて描くことは、あくまで絵画の実践-技術にかかわるのであって、植物そのものについての実践(例えば、植物を育てること、木から木材を削り出すこと等)とは異なる。