●引用、メモ。『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』(マドリン・ギンズ+荒川修作)より。以下のことは、ぼくがこれからやろうとしていることへの、重要な導きとなってくれるように感じられる。
ここで語っている「わたし」とは、ヘレン・ケラーであり、同時に荒川修作であり、そして(おそらく実際に書いている)マドリン・ギンズでもある存在だ。この本では、ヘレン・ケラーが自分について(「わたし」として)語ることが、そのままアラカワの作品についての解説になっている。三つの「わたし」はだから、文字通り一体化している、というか、意図的に混同され、混線させられている。まず、このあり様が面白い。
引用の最後の部分で、盲目であるヘレン・ケラーが、自身の「運動感覚的図式の枠組」を通して「視覚中心のもの」と出会う、というのがすごく面白い。
≪わたしの右肩の内側で起こっていることは、左肩で起こっていることから、二・二五フィート離れている。「生きているキャンバス」が形づくられるのは、スポット間の距離としてである。ある一瞬のスポットは、別の一瞬には距離となる。このような方法で、わたしは事物や出来事を配置する。スポットや領域、距離は拡大したり、減少したりして、頻繁に入れ替わり、ときにはそのことがわたしにもわからないことがある。わたしは左肩の内側で起こったことを、右肩に起こったことから二・二五フィート弱ほどの距離を保ったまま、切り閉じをする。この二つの肩を別々のものとして、その間の距離をとっておくのは、この二つのものが、その本来の性質、また(わたしの)身体の性質から考えても、そのように存在していくに値するからである。だがわたしが、物凄く素早く---銃弾のごとく速く---動くことを強制されたときのみ、その二つのものに肩という名のスポットを、場所として与えることにしている。≫
≪中枢となるポイントは、三つの適正な位置から見られなければならない。つまり、目の高さから見られ、見上げられ、見下ろされなければならない、とわたしは教えられた(でも、このことを教えられる必要があっただろうか?)ポイントの最も重要な部分のまわりに、またそこから、結集した様々な仮説が、何本かの線になっていく。
方向付けされたスペースにおいては、基本的なものとして二つずつ組み合わされた正反対のものの、三組の関係(前−後、上−下、右−左)は、座礁する、あるいは座礁しない。後景と後景とは重なり合う。瞬間を所有すれば、固定は確固としたものになる。
キャンバスは、それぞれの視点から、いくつかに分割される。それと同じように、自分自身を人間というコンセプトとして分配している者は、日頃示している性向と、様々な仮説とが結びつくところで、理解されることとなる。そのとき、わたしという空は困惑するかもしれない。≫
≪どこでも照らすということから、光という現象は完全に変遷的と言えるはずである。知覚についても、それとほとんど同じことが言える。何かをほんのわずか知覚することも、何かを照らしだしたのと同じなので、何かを照らしだすというのは、直接に的確に捉えること、つまり、何かへ変遷してゆく存在になるために要求されることと、見なされる。知覚は行動となり、そしてあらゆる場が突然行動となる。そのことによって、知覚は世界をそれ自身としてさかんに攻撃し、的確に捉えつつ変遷しながら入り込む。≫
≪様々な印象が示唆しているのは、その一つ一つがそれぞれ別個のものとして、またそれぞれ間隔をあけながら、保たれなければならないということだ。それでも、その様々な印象はすべて、そのテクスチャーが集めてきた流れ落ちる滝の安定した流のなかで生きていかなければならない。それぞれに前と後があり、端まで、また真後ろまで奇妙な臭いがする。核心となる位置はおびただしい数にのぼり、そしてもし注意深く見守ってやれば、合図を送ってくる。わたしによって、わたしにむかって、くる日もくる日もスケッチされるのは、運動感覚的で触覚的な図式の枠組。もしも視覚中心のものが、わたしに出会うとすれば、それはまさに、わたしの運動感覚的な図式性の枠組みを通してであろう。運動感覚的な図式性の枠組。≫