●『悪夢探偵2』はすごく面白かったので期待したのだけど、『悪夢探偵』は、表側のリアルな世界に対して裏の存在がどこでもないどこかから遠隔操作するみたいに影響を与えてくるという話で、しかもその裏の存在を塚本晋也本人が演じているという、『鉄男』以来まったくかわっていない黄金の塚本パターンで、正直、ああ、またこれかと思ってしまったのだが、でも、松田龍平が演じる悪夢探偵というキャラクターはとても面白い。hitomiはまったく動けない人という印象だけど、ほとんど顔のアップばかりだからそういう欠点もさほど気にはならない。とても美しく、かつ、面白い顔だと思った。
この映画では携帯電話から塚本晋也の声が聞こえてくるのだが、それを、ああ、この人の声はやはりとてもいい声だなあと思って聞いていると、その声のざらっとした耳へのひっかかり方の感触が、かつて聞いたことのある誰かの声にそっくりだと感じた。だが、その誰かが誰なのかどうしても出てこない。いや、誰かの声というよりも、どこかで聞いた「あるフレーズ」の感じにそっくりという感覚なので、おそらくそれは録音された声で、しかもそれを複数回再生して聞いているはずなのだ。そのフレーズの、リズムや調子や触感みたいなものはうっすら浮かんでくるのだが、それがどうしてもぴたっとした像に結ばれない。こうなると、映画を観ながらもずっとそのことが気にかかってしまう。記憶のなかのその声-フレーズが、像を結びそうになってはぼやけるということが何度も繰り返された。くしゃみが出そうで出ないみたいなもどかしさ。
もう思い出せないのかと思ったが、ぽろっと出てきた。そのフレーズは「身につけさせるんじゃないですよ、体のなかに入れていくんです」というもので、スパンクハッピーの「ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ」という曲のなかで菊地成孔が言っているフレーズだった。おそらく「〜じゃないですよ、〜です」という語尾の感じの触感に相似性を感じたのだろう。しかし、実際に思い出してみると、あんまり似てる気がしなくなった。「似てる」感が急速に冷めていった。それが「何」なのかをはっきりと思い出せなかった(探り出しきれてなかった)時には、あれほど「似てる」と思ったのに、あの強烈な「似てる」感はなんだったのだろうか。
これは多分、「似ている」というよりも、塚本晋也の声の感触が、ぼくの頭のなかのどういう通路を通ったのか分からないけど、なぜか不意に菊地成孔の声の記憶に連想的に繋がって(混線して)しまったということなのだろう。デジャヴに近いような記憶の混線。ぼくは菊地成孔とかスパンクハッピーとかを熱心に聞いたことはなくて、スパンクハッピーっていうのがあるらしいけどどんな感じなのかと思って聞いてみた、というくらいなのだが(だからそんなに何度も繰り返し聞いている曲ではない)、菊池成孔の声というぼやっとした記憶ではなく、この曲のここの部分のフレーズというピンポイントで「似てる」が指定され、記憶が掘り起こされてしまった、というのも面白い。なぜ、よりによって、他の何かではなく、この曲のこのフレーズなのかさっぱりわからない。記憶や連想のもつ、このような、どう繋がっているのかさっぱり分からない感が、気持ち悪くも、面白い。
無理矢理のこじつけみたいに感じられるかもしれないけど、塚本晋也の映画にいつもある、どこか確定出来ない遠い場所の誰かが、いま、ここにいる自分を遠隔操作しているという感覚は、塚本晋也の声の裏側から(その経路や関係が分からないまま)菊池成孔の声(の記憶)がいきなりひょこっと現れてしまう、という感じの、気持ち悪さというか、何とも不確かな感覚に近いのじゃないかと思う。
●前に、佐々木敦阿部和重の対談を聞きに行った時も、阿部和重の声と喋り方が「誰かに似ている」気がして、その「似てる」感がかなり強烈で、それが気になって仕方なかった(その時は「誰に似ている」のかは思い出せなかった)のだが、その時に起こっていたのも、これと同じようなデジャヴみたいなことだったのだろうか。もしかすると、実は誰にも似てなくて、ただ「似てる」感だけがあったのかもしれない。