(20日と19日との日付が逆になってしまった。これは20日の日記で、20日のが19日の分です。)
●絵画に詳しいということと、絵が分かるということとは違う。マティスはぼくにとって永遠の謎のように魅力的なのだが、それでも、マティスの絵にあるマティスにしかない「何か」というものがあって、それをある程度は「分かっている」という感覚はある。たとえば、作風が似ていてもマティスの絵とドランの絵を間違えることはまずないと思う。それは、個々の作品の出来不出来とか、狙いやコンセプトの違いなどより前にある「何か」で、Aさんの顔とBさんの顔が違うのが分かる、という感じ、あるいは、コバルトグリーンとビリジャンとの違いは明らかである、というくらいに明らかなものだ。
別にこれは特別の感覚ではなく、おそらく、分かる人には苦も無く分かる。だから、絵画を深く理解する、考える、というよりももっと前の段階の、そのための条件みたいなものだ。たとえば、小津安二郎のワンカットと成瀬巳喜男のワンカットとがあきらかに違っていて間違えようがない、というのが分かるために、特に映画に詳しい必要などない。見れば普通に分かる。小津や成瀬という名前を知っている必要さえない。だが勿論、最初は全く分からなかったけど、たくさん観ているうちに、あるいは必死に勉強して、あるいは歳を重ねることで、分かるようになるということも多々あるだろう。分かっていると思っていたが間違いだったということも、しばしば(ただ、それが間違いや勘違いであったとしても、「分かる」っていう感覚をクリアに得られるかどうかが、とても重要だと思う)。
作品とは、感覚の経験であり、感覚の構築であり、感覚の創造で、もっと言えば、感覚によって感覚では届かないところまで行こうとする試みである。だから、感覚によって感受できなければ(素手で、普通に見れば分かる、が成立しなければ)そこから先へは行けない(「見れば分かる」だけで「終わり」だと言っているのではない、それは「はじまり」で、そこから先が途方もない)。しかし、感覚入力(感覚構成)の基底的条件は、個々の身体や脳によってそれぞれ異なっている。たとえばぼくは、音楽においては、マティスとドランの違いや、小津と成瀬の違いのように、くっきりと(文脈や理屈によってではなく内的に)「分かる」という感覚を得た経験が、今までにあまり覚えがない。まったく分からないというわけではないが、それはどこかぼやっとしていて、その精度(あるいは衝撃度)が低いと言わざるをえない(もちろん、今後いつか「くっきり分かる」という経験に出会えることがあるかもしれない、という希望は捨ててないけど)。こればっかりはしようがない。
個々の人がそれぞれ「こればっかりはしようがない」身体をもっていて、そのそれぞれの「こればっかりはしょうがない」のなかで、それをなんとかかんとか工夫して使用して、それぞれに違った何かを試みてみる、というのが芸術というか、まあ、生きているということではないか。
●分かる人には分かる、ということの、どうしようもなさ。この人にとって、世界はどういう風に聞こえているのだろうかと思う。『音楽嗜好症』より。
フィンランドの昆虫学者で、虫の羽音のエキスパートであるオラヴィ・ソタヴァルタにとって、絶対音感をもっていることが研究に大いに役立っていた。虫の羽音の高さは羽ばたきの振動数で決まるからだ。ドレミのような音名だけでは飽き足らなかったソタヴァルタは、正確な振動数を耳で判定することができた。蛾のPlusia gammaが出す音は低いファのシャープだが、彼はもっと正確に、毎秒四六サイクルという振動数を推定できた。≫