●ぼくにはどうしても、自分が音楽に対して距離がある、疎遠だ、という感じがある。中高生の時は人並みに聴いたけど、それは「音楽」そのものを聞いたというよりも、ある種の精神性の象徴のようなものとして、新鮮な空気のようなものとして、それを必要としていたという感じだと思う。『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)』(オリヴァー・サックス)の「失音楽症」の部分を読んでいると、ぼくにとっての「音楽の聞こえ方」に近い感じの記述があった。事故にあった音楽家の話。
≪それなのに頭を強打して、すべてが一変したのです。絶対音感は消えました。今でも音の高さを聞き分けることはできますが、その名前と音楽空間における位置を認識することができません。たしかに聞こえますが、ある意味で、聞こえすぎるのです。すべてを等しく吸収するので、本当に苦痛を感じることがあるほどです。フィルタリングシステムなしにどうやって聴けばいいのでしょう?≫
≪(ベートーヴェンの作品一三一について)音楽が届いたとき、私は第一バイオリンの最初のソロ楽節を何度も繰り返し聴きましたが、二つのパートを結び付けることができませんでした。第一楽章をすべて聞いたとき、私に聞こえたのは四つの別々の音、四つの別々の方向へ向かう細くて鋭いレーザービームでした。
事故からほぼ八年経った今でも、私には四つのレーザービーム……四つの激しい音が、等しく聞こえます。そしてオーケストラを聴くと、二〇の強烈なレーザーのような音が聞こえます。その別々の音すべてを統合し、意味のある何かにするのは途方もなく難しいことです。≫
その感じ分かる気がするのだ。まあ、ぼくの場合はたんに音高に対する感覚が鈍い、つまり音痴というだけのことなのだが。この音楽家は≪音高を思い出せるのは、ひとえに、歌うとどんな感じがするかを覚えているからです。歌うプロセスを始めると、あっ、そうだった、と思うんです≫と語っているのだけど、ぼくもメロディに関しては、実際に自分で歌ってみることによって、ああ、こういうことか、と分かる部分があるのだが(だからきっと、音高の変化を抑揚や運動を媒介して認識しているのだと思う)、ハーモニーとか調性的なことに関しては(まったく分からないということはないんだけど)かなり弱いと思う。カラオケの伴奏に合わせて歌う時、そこで転調することが分かっていても、実際に声を出してみるまでは対応できるかどうか分からない、とか。
だからぼくにとって音楽でリアルなのはリズムと音色(あるいは音のテクスチャー)であり、時間のなかでのその変化や展開で、音楽で最も色彩や感情が豊かであろうところが、まったく分からないわけではないが、とても低い精度でしか伝わってないと思う。弱いから、過度に分析的に聴こうとして、さらに「聴きどころ」を逃してしまう気もする。人と話していて、声は聞こえても意味が聞こえない、みたいな。多分、だからだと思うけど、ぼくには、音楽を聴くよりもただ物音を聞いている方がずっと面白いことが多い(DVDで映画の音だけ聴いているのとかが、とても面白い)。
音楽を聴くときは入り込んで聴いてしまうので、BGMのように「流しておく」ことがとても難しい(「聴きどころ」がわからないのですべてを等しく聴いてしまおうとするからだと思う)。静かな曲を低い音量で流しておくのがけっこう鬱陶しい。それはきっと、音の高さを、空間的配置(幅)としてより具体的な身体の運動(複数の線)の方により強く傾いた形で聴いてしまうので、運動感覚が自然に駆動して、むずむずするというか、貧乏ゆすりでもしているような感じになるのだと思う。
●あと、ぼくはそこまで極端ではないけど、次に引用する人の「感じ」は分かる気がする。音の高さの認識と、メロディの認識とでは、メカニズムが違うのだと思う。
≪私に欠けている要素は、音と音の関係を聞き取り、それが相互にどう作用し絡み合っているかを聴覚で十分理解する能力だ。たとえば一オクターブ以内にあるような比較的近い二つの音を、きみがピアノで弾いたとしても、私にはどちらが高い音なのか言えないだろう。(略)
おかしなことに、私はメロディーの感覚、というよりメロディーの記憶力は比較的よい。(略)テープレコーダーのようにハミングで再生することもできるし(略)。でも、自分のハミングなのに、旋律トリルの音が上に行っているのか、下にいっているのかも分からない。≫
おそらく、ハミングという、身体的、行為的な回路をいったん間に入れる(遠回りする)ことで、直接はアクセスできなくなってしまっている(もともと脆弱な)音高の認知にまでアクセスが届く、ということではないか。あるいは、メロディ認知(メロディの把握)の方が、純粋に聴覚的な音高認知よりも、形態的、言語的、文脈的な把握と近いということもあるのかも。