●目が覚めて、寝ぼけたままテレビをつけたら、カンディンスキー青騎士の展覧会の紹介をしていた。で、カンディンスキーの絵に対するゲストの反応が、「かわいー」と「きれー」だったのでがくっとなる。もっと「わけわかんねー」とか「きもちわるい」とか、ないのだろうかと思う。
ぼくにとってカンディンスキーは、どうしてもよく分からない画家だ。たとえば、もう一方の抽象絵画創始者であるモンドリアンの絵は、とても分かり易い。それはヨーロッパ絵画の伝統の延長線上にあるもので、モンドリアンの絵から見えてくるものはオランダの光(実際にオランダに行ったことはないので、つまり「オランダ絵画の光」)である、と言ってもいいと思う。それは、ゴッホにとって南仏の光が重要であり、マティスにとってモロッコの光が重要であったのと同様に、かなりの意味で具体的なものだと思う。きわめて大ざっぱに言えば、近代以降のヨーロッパ絵画(の色彩)にとって重要なのは外光であって、それは空から降り注いできて、大気や地形のなかで屈折し複雑に乱反射する。その光の厚みを平面的な色彩の関係(あるいは油絵具の層的構造)へと変換することが、近代絵画における色彩の基本的な機能だ。それはフェルメールからモンドリアン、そしてルイスやニューマンに至るまで基本的にはかわらない。こと、光=色彩に関して見れば、(あくまで大ざっぱな捉えかたをすれば、だけど)同じ感覚を基盤とした同じ流れのなかにあると言ってもよいと思う。
だが、カンディンスキーの色彩をそのような眼で見ると、ひどく濁ったり、歪んだりしているように、ぼくには感じられる。個々の色彩が濁っているというよりも、その響きが濁っている。黒は、ヨーロッパ近代絵画の明るく輝く黒ではなく、穴のように落ち込んでゆく黒だし、赤は、重たくて野暮ったく感じられる。他の色に中途半端に白が混じると嫌な濁り方をする。特に紫や青に白がまじるとかなりやばい。黄色は、きわめて不安定であるように感じられる。色と色との関係が不安定に揺らいでいて、ぼくは多くの作品から、車酔いしたような気持ちの悪さを感じてしまう(それは、ムンクやノルデのような表現主義的な濁りや歪みとはまた違う)。そして、色彩から、大気のなかの光のような「厚み(厚みは、立体感とも深さとも違うものなのだが)」が感じられない。
おそらくカンディンスキーが見ていたのは外光ではなく内光であり、それを精神的な光とか言っちゃうと、あまりにあれなんだけど、非視覚的な光(あるいは非視覚的な何か)を色彩へと変換しようとしていたのではないか。そういう意味ではカンディンスキーこそが真の抽象絵画を描いたのかもしれない。カンディンスキーはモネの絵を観て画家になろうと思ったという話だけど、おそらく、モネの絵のなかにモネとはまったく別のものを見ていたのだと思う。それはカンディンスキーシェーンベルクのコンサートの「印象」を描いていることからもわかる気がする。あくまで外光のもとでの事物を描こうとするモネに対し、カンディンスキーは空間が音楽で満たされる(そしておそらく、それによって歪む)様を捉えようとする。要するにカンディンスキーはオーラみたいなものを色彩として捉えようとしていたのではないだろうか。というか、ぶっちゃけ、それってオーラでしょう、とまで言いたくなる。
ぼくにとってはカンディンスキーの絵を観ることは、とても感情や感覚をつよく揺さぶられることで、それも、ポジティブな方向にではなく、不安になるとか、車酔いがするとか、そういう、気に障る、気持ち悪い、足元がぐらつく、というような感触のものだ。しかしそこには、ヨーロッパの絵画とは違った、(ロシア的な、と言ってよいのか、それともカンディンスキー固有のものなのか分からないのだが)独自の質があるように思われる。そしてそれが、自分の感覚では、なかなか腑に落ちるという感じでは掴めなくて、それがまた気持ち悪い。それを簡単に「かわいー」とか「きれー」とか言われちゃうと……。
これはあくまで、ぼくが今までカンディンスキーを観た少ない経験からの話であって、例えば、今やっている展覧会をもし見に行って、多くの作品に触れたら、また観方はかわるかも知れない。
●ちょっと歩いた。