●時々、無性にアニメが観たくなる。『神霊狩』をまとめて借りてこようと思ったのだが、近所のツタヤにはなくて(前はあったので破棄されてしまったのか、これかなり面白いのだけど)、かわりに、カンで『ムネモシュネの娘たち』というのを借りてみたのだが、これが案外面白かった。物語は凡庸なのだが、しかしこの作品では物語はどちらかというと背景に近くて、面白いのは、一方に決して死ぬことの出来ない(かわることのない)主人公たちがいて、他方に、年をとり死んでゆく人物たち(流れてゆく時間)がいる(ある)という、その対比によって、独自の時間の感触を捉えているところだと思う。まだ五話までしか観てない(全六話)けど、一話の舞台が1990年の東京で、二話が1991年、三話が2011年、四話が2025年、五話が2055年となっていて、五話でちょっと話が動くのだが、一話から四話までの35年の間、主人公とその助手は見かけもやっていることのパターンもまったく同じで、背景の時代と彼女たちの周りの人物たちが変化したり年を取ったりする。この感じが面白い。時間の飛躍(の間にあるブランク)によって変化するものとしないものとの対比がくっきりでる。製作されたのは2008年ということだから、一話と二話は過去の話で、三話で現在時を追い抜くと、時間の飛躍がすうーっと加速する、という、この感じも面白い。永遠に死ねないとか言っても、本当に永遠を感じさせるようなスケールではなく、せいぜい人間の三代くらいという幅で時間を扱っているというスケール感もちょうどいい感じ(永遠というより、時間の流れる速度の違い、という感じ)。
ただこれは、永遠に死ねない女性が、繰り返し何度も殺されるという話でもあって、ぼくの趣味からするとグロテスクな描写がきつ過ぎて、目をそむけたくなるというか、心臓に圧迫を感じるのだが。
最終話だけまだ観てないのは、こういう話は「まとめ」ちゃうと面白くないんだよな、という恐れがあって、まだしばらく、このいい感じを保持していたいと思っているから。
●現状肯定っていうのは、いま、既にそうであるものを肯定するという意味もあるけど、それより、「いまを変えつつあるこの流れ」に乗っかっていこうという方が、実はずっと現状肯定的なのではないかっていう気がする。後者の「現状肯定」は一見新しいものを受け入れ、生み出そうとする改革派のようにみえるけど、実は、「もう、この流れはしょうがないよね」と言っているのと同じで、けっきょくより強い(より強迫的な)意味での現状肯定なんじゃん、と思う(それは、「このままでは生き残っていけない」という恐怖を煽る言説と表裏一体となっている)。それに対して、「いや、その流れには乗れない」っていう態度があって、それは、一見、頑固で現実に対応していないというか、旧守派みたいにも見えてしまうけど、「その流れで本当にいいの?」あるいは「本当にその流れしかあり得ないの?」っていう疑問なわけで、それは、他の多くの人が見ている現在とは別の現在をみているっていうことから生じるのではないか。反時代的っていうのは、別に浮世離れしているわけでも、ロマンチックでヒロイックな態度でもなくて(なんとかに抗する、みたいな鼻息荒いものじゃなくて)、たんに、過去も未来も現在も、もっと別の視点から、違うものとして見ている(見得る)っていうだけのことだと思う(もちろん、それは常に実験であり、正しいかどうかはやってみなくちゃ分からない)。それは実は、とても遠くから「見られてる」ってことを意識しているということだ。『ムネモシュネの娘たち』の主人公の存在が感じさせるのは、そのような(遠い過去、遠い未来からの)まなざしだと思った。