●ほとんど何処へも出かけることなく、部屋の外へ出ることさえ稀であるうちに、日付がどんどん過ぎてゆく。そんな風にひきこもって、年始以来ずっとやりつづけていたことが、ようやく(とりあえずは、であるけど)最後まで行き着いた。毎日毎日、本当にちょっとずつしか進まなかった。といってもせいぜい一か月だし、たいした距離ではないはずなのに、なんかすごく遠い道のりだったように感じられる。自分のやっていることについて、三回のうち二回くらいは、けっこうおもしろいんじゃないかと思うのだが、三回のうち一回くらいは、「お前、根本的なところで勘違い(空回り)しちゃってるよ」という不安を感じる、という毎日。
来月は少しは外を出歩きたい。
●『熱海の捜査官』を観た勢いで、山口雄大清水崇がつくったドラマ『SOIL』を借りてきた。ぼくは『怪奇大家族』が大好きなので、この二人がつくるドラマには期待が大きい。だが、一話目が滅茶苦茶にぶっ飛んでいて、これからいったいどんなところに連れて行かれるのかとわくわくしたのだが、二話目から、わりとよくある、閉ざされた、一見クリーンで平穏にみえる高級住宅地の裏側にひろがるドロドロの人間模様みたいな話になって、かなりがっかりした。それでは普通すぎるしわかりやすすぎる(『ツイン・ピークス』が偉大なのは、そういうわかりやすい落としどころにハマりそうでいて決してハマらないところだと思う)。それでも、「いくらなんでもやり過ぎだろう」という感じを強引に押し通して成立させてしまっている主演の田山涼成と星野真理のコンビはすばらしいとは思う。ちょっと調べてみたら原作があるらしくて、ああ、それじゃあしょうがないのか、とも思った。
ぼくが清水崇を好きなのは、おそらくこの人も基本「ネタ」先行の人で、物語の構築が弱く、しかしだからこそ、へんにもっともらしい理由づけや、常識的な落としどころを作らないからだと思う。ぼくは本当に、「もっともらしい理由づけ」と「常識的な落としどころ」が嫌いなのだと、最近すごく思う。
例えば、高橋洋の『恐怖』などは、特に難解な物語や構成ではないと思うのだけど、もっともらしい理由づけや常識的な落としどころがないから、多くの人に「わからない」という感想をもたせてしまって、つまりカルトってことになる。逆に、かなりマニアックだったり難解だったりしても、もっともらしい理由づけや常識的なおとしどころ(「あっと驚く意外な結末」など、もっとも常識的なおとしどころだと思う)さえあれば、多くの人に受け入れられる可能性があるのではないか。ティム・バートンとかクリストファー・ノーランがハリウッドでメジャーな位置にあるというのは、そういうことでもあるのではないか。
そうだとしても、ぼくにはどうしても、もっともらしい理由づけや常識的なおとしどころは許しがたいのだ。いや、それそのものが許しがたいのではなく、そんなもので納得してしまう(納得したことにしてしまう)ということが許しがたいのだと思う。理解するっていうのは絶対そんなことではないはず。しかし、そんなこと無視しちゃえばよいはずなのに、それをわざわざ「許しがたい」と思ってしまうのだから、それはその力が自分にも強く作用してしまうということでもあるのだ。