●もうチェルフィッチュがはじまっているんだなあと思いつつも、全然外出モードにならない。ずっと閉じこもっているとあまりお金を使わないから本が買えて、で、また外に出ないで本を読む、というサイクルになってしまう。観たい展覧会も、あ、いかなきゃ、と思う時には既に終わっている。
●引用、メモ。『スピノザの方法』(國分功一郎)という本についての著者自身による紹介文から(http://www.msz.co.jp/news/topics/07579.html)。「説得を求める哲学」と「説得を求めない哲学」という区別はとても納得がいく。本はまだ読んでないけど、この紹介文はすばらしいと思う。これだけ読めば本は読まなくてもいいんじゃないかと思ってしまうくらいに。
(とはいえ、このような部分に感動してしまうのは、ぼくが多分に「他人にひっぱられてしまう」ところがあるからで、本来、哲学や芸術が「説得を求めない」ものであることは自明であるはず。少なくとも、ぼくが目指すものは、はじめからそのようなものであるはず。)
≪『スピノザの方法』を書くにあたっても、スピノザの「思考のイメージ」をつかむことが大きな課題でした。それにはなかなか難儀しましたが、私はひとつのヒントを手に入れました。それはスピノザに大きな影響を与え、またスピノザが乗り越えようとしたデカルトの哲学と比較してみるということです。この作業を進めるなかで、それこそ私はある「直観」を得ました。それは、説得を求める哲学と説得を求めない哲学という区別です。
デカルトは説得を求める哲学を構想しました。彼の言うコギトの真理とは、どんな懐疑論者であっても説得してしまう「一撃必殺の真理」です。彼はそんな説得の要請を念頭に置きながら壮大な哲学体系を難解な概念を駆使して構築していきました。それに対しスピノザは、説得の要請こそがデカルトの哲学を歪めてしまっていると考え、説得を求めない哲学を構想したのです。 ≫
●さらに、ここで描かれる「直感」と「イメージ」の関係も、とても重要なことだと思う。いや、こっちこそが重要なのか。イメージは直感そのものではないが、直感はイメージによって表現される。イメージはリテラルな理論の先(奥?)にあり、直感はさらにその先にある。直感はまさにじかに掴まれるしかない(おそらくシンプルな)何かだが、そこに至るには(それをあらわすには)、複雑な抽象概念の積み重ね(によって描かれるイメージ)が必要となる。これってまさに芸術のことでもあると思う。
オリジナリティの有無というのはつまり、このような「直感」が存在するかどうかということで、他の誰かに似てるか似てないかというような、他との関係や文脈によって決まるのではない。
ベルクソンはこんなことを言っています。哲学者の書物を何度も読み、その思想に慣れ親しんでいくと、何か単純なもの、あまりに単純で哲学者自身が言い当てられなかった何かに出会う、と(『哲学的直観』)。哲学者の書物は難解で抽象的な概念に覆われています。しかし、それはこの単純なものを表現するための手段であり、それに到達するためにこそ哲学者は抽象的な概念を駆使してものを書き続けるのです。この単純なもののことをベルクソンは「直観」と呼んでいます。
では、この直観はいかなるものでしょうか? ベルクソンはこう言います。哲学者本人でも表現しきれなかったこの直観をわれわれ読者が表現できるはずがない。しかし、私たちにも捉えることができるものがある。それはこの直観と抽象概念との間にあるイメージである……。後にジル・ドゥルーズはこのイメージを「思考のイメージ」と呼び、いかなる哲学的理論もなんらかのイメージを前提にしていると論じることになります(『差異と反復』)。≫