青木淳悟「私のいない高校」(「群像」二月号)をようやく読み始めた。まだほんとうに「読み始めた」だけで、全体の三分の一も行ってないけど。
こういう小説を書こうと思うこと、そしてそれが自分には出来ると思うことがまずすごいのだが、それを実際にやってしまうということはもっとすごい。
最後まで行っていないから推測でしかないけど、今回の作品はおそらく、一つ一つの文が微妙に変だということ以外の「大仕掛け(複雑な仕掛け)」みたいなものは一切なしで行くんだろうと思った。ちょっと変だけど、普通に読みやすく、普通に分かり易い。しかも、「面白いこと」が何一つ書かれていない(それはちょっと言い過ぎかも)。にもかかわらず、滅茶苦茶に面白い。なぜこんなことができるのか。
ペタッとした平板な記述が、強弱も抑揚も仕掛けもなく、延々とつづく。書かれていることはなんというともないのだが、その繋がりや組み合わせや呼吸の面白さ(平板な事実の羅列のなかに、時々ふっと「(ありがちな)小説風」の内面や細部が微風のように現れ、しかしすぐにふわっと消える、とか)で、一ページで二、三度くらいの割合で、クスッと笑わせられる。でも、それだけ。なのに面白い。謎を解こうにも、解くべき謎がそもそも存在しないという意味で、いままでの作品のなかでもっとも謎であるかもしれない。
高度に暗号解読的な小説でデビューした作家が、こんなにペタッとツルッとした究極的に謎のない小説を書くというのがすごい。青木淳悟という作家は、一作ごとに作風を変え、にもかかわらずどんな作風でも青木淳悟でしかあり得ず、しかも外れが一つもない(いや、一作ごとに作風を変え、というのは正確ではなく、徐々に作風を変化させてここまで来た、と言うべきだろう。「このあいだ東京でね」には、作家を思わせる「私」は一切出てこないけど、それは文の複雑な操作や構成によって成立していたが、この作品では「文」そのものも、その内容も、まったく難しくないのだ)。
この小説は、高校の先生が書いた手記を元に書かれているらしくて、いかにも「高校の先生が書いた手記」っぽいことしか書かれていなくて、つまりタイトル通りに青木淳悟の「私」はどこにもないはずなのだが、にもかかわらず、すべての文に、キャラクター化された青木さんのアイコンが埋め込まれているんじゃないかと思うくらいに、青木淳悟でしかあり得ない感じなのだ。つまりそれは、世界全体を青木淳悟化しているということでもあるのだが、その時の青木淳悟とは、内面とか自意識とかいうものとはまったく別の何かとしてあるのだと思う。
とはいえ、男性であり教師ではない青木さんにとって、女子高(厳密に言えば下の学年には男子もいるのだが)という場所はまったくの未知であるはずで、未知のものを外的な資料を用いて再構成するという意味では、「私」から遠く離れた世界(場所)を描こうとしていることは間違いないのだと思う。だから、世界を青木淳悟化しようとしているというより、青木淳悟を世界化しようとしているというべきなのかも。つまり、青木さんが、書くことによって、留学生のいる女子高という環境そのものになろうしている、教師の書いた手記という(あるいは教師の「内面」という)形式そのものになろうとしている、ということなのかも(まだ三分の一も読んでないないに、こんなことを言うのは拙速すぎるけど)。