●引用、メモ。『臨床するオートポイエーシス』(河本英夫)より。「できる」ということと「知る(意識する)」ということとは違う。しかし、「できる」と「知る」とを、まったく別物として分けるのは下らない。「知る」は、「できる」に含まれる。だとすれば、「知る」は、「できる」のなかにどのように位置づけられるのか。あるいは、「できる」が成立するために、どのように「知る」を活用すればよいのか、を、考えるべきではないか。この本はすごく面白い。
なんというか、河本英夫や宮本省三というようなラインの、オートポイエーシスというより認知神経リハビリテーション的な知見と、ラカンメラニー・クラインといった精神分析的な知見が、どのように絡み合うことが可能なのかということに、ぼくはすごく興味がある。この二つは、どちらも、あくまで(臨床的という意味で)実践的な知である点で共通すると思うのだが、水と油のようでもあり、また、相補的なようでもある。この二つを(強引に)結び付けるような位置に、荒川修作がいるんじゃないかと、ぼくは思うのだけど。
≪意識は実に多くの働きをしている。意識は、脳神経科学の見通しで考えれば、大脳前頭葉の発達にともなって、意図せず出現してしまった副産物のようなものであろう。だがたとえ意識が副産物の結果だとしても、自己組織化の本姓上、ひとたびある水準の仕組みが創発してしまえば、創発の後にはまったく異なる局面が生じる。意識の出現は、一つの相転移であるが、それ以前の状態をどのようにしても知ることのできない相転移である。この相転移は、不連続な飛躍を経るだけではなく、飛躍以前の状態が一切解消されるために、みずからの由来を問うことができない。つまり意識は、みずからがどのようにして生成してきたのかを、みずからの内部をいくら調べても取り出すことができない。≫
フッサールが指摘した第二の意識の働きは、それじたいで心の働きを感じ取る場面での意識である。たとえば感情が動くとき、それが動いていることを感じ取っている。また反転図形を見ようとして、反転するはずの次の図形が見えずもがいているとき、このもがきを感じ取っている。こうした感じ取りは、活動をそれとして感じ取ることであり、いわゆる「気づき」である。気づきは、自己意識ではない。意識の意識、意識についての意識と規定される自己意識は、見ていることを見ているような反省意識である。この反省意識は、対象を見間違えたとき、対象が偽であることが判明したときには、すでに働いている。≫
≪(…)心の働きの焦点は、クオリアではなくまさに意識されないまま作動しているゾンビ・システムの解明に移行している。各種のゾンビ・システムこそ心の基本だという議論が進んでいるのである。脳神経科学の進展によって、意識的・意図的な経験以前に脳神経系はすでに作動してしまっているという実験科学的事実が広汎に解明された。眼前の物体に手を伸ばそうとするとき、そう意識される以前に脳神経系はおのずと活動を行ってしまっていることになる。≫
≪おそらく意識研究者は、感覚がそれとして意識される感覚となる場面、感情がそれとして気づかれる場面に、意識の秘密があると考えるに違いない。そしてこの場面で、「ゾンビ・システム」+「なくてもすむ意識」という発想で、意識の高次機能を考えようとするはずである。ところがゾンビ・システムがそれとして感じ取られたり、それとして気づかれるところにそのつど意識の出現があるのだとすると、意識がそれとして出現することは、同時に何かの組織化を行っているはずだと考えることもできる。感じ取られている意識をそのまま意識だとすると、組織化されて出現した結果を意識だと呼んでいることになる。≫
≪逆に意識のそのつどの出現という事態が、同時に組織化の仕組みを示しており、その組織化の結果がそれとして感じ取られている反面が、通常意識と呼ばれているものだと考えてみよう。この場合の組織化は、それが作動することが結果として意識を出現させるようなものであり、結果として自覚的な意識が出現するプロセスこそ意識の行為だと考えるのである。意識には通常それとして知ることがともなっている。この知ることをともなうために議論はただちに自己意識へと進んでいった。ところが行為としての意識は、その全貌がみずからに知られることなく作動する。みずからの出現を含んだ自己組織化を行うシステムを意識だと定義しよう。こうした行為の機能的側面が、通常認知科学が取り出す働きである。この場面で意識の働きとして区別されなければならないのは、みずからが出現する組織化と、ゾンビ・システムそのものを制御・調整する組織化である。≫
≪ところで知るということは、人間が世界にかかわるさいの基本的な働きなのだろうか。ここに何か大きな限定が働いていないのか。この場面を切り替えるところが、自己組織化の発想であり、着想である。つまり意識ならびに主観性は、世界や物とのかかわりを組織化するのであって、その一部が知ることを通じてえられる指標であることになる。つまりこれは知るということを認識論の規定から解放し、行為論として世界とのかかわりを組織化することのなかで、この組織化に決定的な手掛かりをあたえる指標こそ知だと考えるのである。体験的行為は、それとして全貌が意識のものと現れることはない。むしろ逆に体験的行為のもっとも有効な手掛かりを意識は提供している。そう考えるのである。行為論では、世界へのかかわりの組織化として働いている当のものは、もはや主観性と呼びようがなく、行為を通じてそのつど形成され続ける「作動する自己」となる。この場面の最初の働きが、物の出現や世界の出現であり、これにかかわっている働きが「注意」である。≫
≪こうした身体への意識の関与はまだまだこれから明らかになってゆくと思われる。そのさい認めておく必要があるのは、意識そのものの出現にかかわる組織化、意識の関与にかかわる組織化(主要には制御・調整)、さらに意識の自己維持にかかわる組織化がそれぞれ異なる局面にあることである。≫