●引用、メモ。『認知哲学 心と脳のエビステモロジー』(山口裕之)の「生得性再考」の項より。ここに書かれている通りだとすれば、「すべては遺伝子に書き込まれている」とか、「生物は遺伝子の乗り物でしかない」という考えは成立しなくなる。というか、遺伝子が「環境のなかに(環境とともに)」ある、というのは当然のことなのだが。
あと、こういうのを読むと、「結果としてそのようなものとなった一人の人間」というものが出来上がる過程の途方もなさと、本当に人は一人一人まったく違っているのだなあということとを感じる。
チョムスキーによる「言語生得説」の提唱以降、機能局在説は、認知的機能の生得性とセットで語られることが多くなっている。チョムスキーは、チンパンジーのような高等な類人猿でさえも言語を獲得することができないのに対し、人間の赤ちゃんが容易に言語を話すようになることから、人間の脳には「言語器官」ともいうべき、言語を話すための専用の装置があると考えた。
理論的に想定した機能が実際に脳の中に機能単位として実在しており、しかもそうした脳の機能単位は生得的に脳に組み込まれているという主張は、認知科学におけるひとつの典型的な主張である。≫
≪とはいえ、ニューラルネットにおいて、そうした知識はユニット間の配線や重み付けによって表現されるから、そうした知識が生得的であるということは、それにかかわるすべての神経細胞について配線や重み付けが遺伝的に設計されているということである。しかし、脳の神経細胞の数は大脳だけで数百億、小脳も含めると一千億以上といわれる。大脳の神経細胞は平均してそれぞれ数万個のシナプスを持ち、別の神経細胞と接続している。脳は異常なまでに複雑なネットワークである。それに対して、ヒトゲノム計画の結果明らかになったヒトの遺伝子の総数は二万数千個に過ぎない。どう考えても、脳の詳細な設計図が書き込める情報量ではない。≫
≪そもそも、遺伝子はある場所あるタイミングで特定のタンパク質の合成を規定するだけである。つまり、遺伝子は細胞の構成成分を指定するものであって、具体的な構造の組み立て方を指示するものではない。構造は、構成成分が自己組織的に集合することで形成されてゆく。≫
≪一昔前は、遺伝子は「生物の設計図」という比喩で語られることが多かったが、近年の生物学の進展の結果、そうした素朴な比喩はもはや通用しないことが明らかであり、「生得的」とか「遺伝的に決定されている」ということの意味を再考しなければならない。≫
≪彼ら(『生得性再考』を書いたエルマンやベイツ)が否定するのは、言語や文法など具体的な知識そのものが生得的であって、そうした知識がはじめから脳の一部のモジュールとして組み込まれているという、チョムスキー派の研究者たちの考えである。要するに、脳のメカニズムは生得的であるにせよ、学習内容そのものがあらかじめ決まっているわけではないということだ。≫
≪なお、彼らは「生得的」という言葉を、「遺伝子に書き込まれている」などという単純な意味では採用しない。彼らの定義では、「生得的であるとは、「生物の外の情報に依存しない遺伝子と、その分子的、細胞的環境の間の相互作用」の結果として起こる、「個体発生の途中において生物自身のうちに起こる変化」である(一八頁)。≫
≪たとえば、個々の神経細胞が遺伝子と分子的・細胞的環境との相互作用によって形成されることは間違いないし、脳の基本的な構造もそうして形成されるのだと思われる。≫
≪(…)「アーキテクチャ」の制約、つまり脳の構造レベルでは何らかの生得的条件がはたらいているということは、かなりありそうである。ヒトという種に属する個体において、神経細胞の種類や皮質の六層構造、皮質領域間や神経核間の配線などといった構造は、基本的に共通だからである。
ただし、すべての個体において共通だからといって、それが遺伝的に決定されているとは限らない。そうした構造の形成のためには、「その種のすべてのメンバーにとって共通する外的な環境」(一八頁)が必要かもしれないからである。エルマンらは、ジョンソンとモートンの言葉遣いに倣ってそうした相互作用を「原初的(primal)」と呼ぶ。≫
≪そうした相互作用による構造形成の有名な例は、ネコの視覚皮質における方位選択性ニューロンのコラム構造であろう。(…)
こうした方位選択性ニューロンやそれらが形成するコラム構造は、およそすべてのネコに共通である。ところが、生まれてすぐに目を塞いで育てたネコの脳からは、そうしたニューロンは見出されない。また、縦縞しか見えないような環境で育てると、縦縞に反応するニューロンは形成されるが、横縞に反応するものは形成されない。つまり方位選択性ニューロンやそのコラム構造は、通常の環境で育ったすべてのネコに共通の構造ではあるが、その形成のためには正常な光刺激のある環境が必要なのである。≫
≪こうした「原初的」な過程を、「生得的」な過程から区別することは難しい。さらに、「原初的」な発達過程には外的環境が影響するのであるから、そうした発達と経験的な学習との間も連続的である。脳の構造や機能の形成は、「遺伝か環境か」などといった単純な二分法では捉えきれないものなのである。≫
≪脳の諸領域の機能はあらかじめ決められているというよりは、神経回路の配線や感覚入力の特性に応じて形成されていくのである。そうした発生=発達の過程は単純に遺伝子によって規定されているというわけではなく、遺伝子と細胞内環境、外部環境との相互作用による創発の過程と考えられる。≫