●作品をつくる時、「意識」というガードの堅い防衛機制を置き去りにするくらいに素早く動く必要がある。これは物理的な速度を必ずしも意味しないが。意識が右に行こうとしているのを察知した瞬間、それを裏切って身体を左に向け、それだけでは追いつかれてしまうから、さらに逆を行って右回りにくるっと後ろを向く、とか。これは、たんに後ろを向くという行為とは違う。たとえば一本の線を引くという時、その描きはじめから描き終わりまでのすべてが多数であると同時に一つの行為であり意味であるから、七分目くらいのところだけが気に入らないからといって、そこだけ消してやり直すというのでは、既に遅れをとっていることになる。一本の線の途中のすべての地点に、結果としてそうなったのとは別の方向へも行くことができた無数の可能性のなかでその瞬間にそれとして選ばれたという事実が含まれている。そしてその次の地点は既に、その前の地点でそう動いたことがあった上でそう選択されている。だから、途中のある一部分だけを書き換えることは出来なくて、それをするのなら、またまったく別の線が描かれなくてはならない。
でも、追い抜くのは意識だけでは足りない。出来ることならば無意識さえも追い抜いて、置き去りにするように動きたい。全速力で走っている自分自身を追い抜くというか、あるいは、全速力で走っている自分に付き合わずに寝ているというか。作品とはそのような動きの集積であるから、そこで何がなされたのか、何をしようとして、何が出来て、何が出来なかったのかは、つくった本人にはよく分からない。分からないくらいでないと作品とは言えない。それを分かろうとするよりも、次の動きの準備をした方がよい。目的は常に結果としてしか訪れないから、その準備は、何のための準備なのか分からないままで行われる。