ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』に、「なんとか新聞ですが批評についてのご意見を…」という台詞ではじまり、失敗ばかりするメイドの「わたしも一生懸命やっているのに誰も評価してくれない」という台詞で終わる、お金持ちたちがランチのために食堂に集まってくる場面がある。カフェとか食堂とかホテルのロビーとか、そういう開放的な空間に人々が集まってくる場面のゴダールがすごいのはゴダールのことを知っている人なら誰でも知っていることだと思うけど、この場面も、はじめて観た時から、何かすごいことが起こっているとは思うものの、何がどうなっているのか、何度観てもいまひとつよく分からなかった。
まず、フレーム内での人の動きと人の出入りが複雑で、しかも、フレームとフレームのモンタージュも複雑で、さらに、フレーム内にいる人の声とは別の声が、常にフレーム内にいる人の会話と被って聞こえていて、しかもそれら全ての会話が、どの言葉とどの言葉とが呼応しているのかよく分からない感じで配置されている。さらにそれに加えて様々な「(言葉以外の)音」が立体的にミキシングされている。だから、そもそもこの空間がどのような配置になっているのか、その中で、何人の人がそれぞれどのように移動しているのか、誰と誰とがどのような会話をしているのか、を掴むのがすごく困難なのだ。しかし、そこに何か途方もなく複雑な(映画としてしかあり得ない)空間が成り立っているのだということは、一目見れば分かる。
で、ビデオで『ヌーヴェルヴァーグ』を観ていて、その場面になったのだが(この二十年の間、十五、六回か、あるいはそれ以上観ているはずなのだが)、今回もよく分からず、いったんテープを止めて巻き戻し、もう一回観たら、なんとなとく掴めそうな感じになって、さらにもう一回観て、完璧に分かったとは言えないけど、なんとなく全体としてこんな感じというのは掴めた気がした。そもそもぼくはフランス語が(イタリア語も)まったく分からないから、字幕に拾われていないフレーム外からの声が何を言っているのかは分からないので、それを誰が喋っているのかは声で判断するしかなく、呼応しているようで呼応していない、呼応していないようで、変に呼応している(断片化されつつも重層化されている)言葉たちの配置を完全に把握することは出来ないのだが。
ここで、空間を図面に描いて、カメラがこの位置とこの位置にあって、人物Aがこのように移動して…、という風に説明し、あるいは、セリフを時間軸にそって並べて、この台詞は誰の言葉で、実は、会話しているわけではない(空間的には繋がっていない)この台詞とこの台詞とが呼応しているのだ、と分析的に示すことも出来るだろうし、きっと、そういうことをしている映画研究者とかもいるのだろうけど、ここで「掴めた」感じというのは、ここでなされている映像と音声のモンタージュから、ある複雑な運動によって織り上げられた空間がホログラフのようにくっきり頭のなかに浮かんだということなのだ。この場面では、見えていることを見ている、あるいは聴こえていることを聴いているだけではダメで、フレームによって、カットによって、時間や空間によって、切り離されている、ある見えているものと別の見えているもの、あるいは、ある聴こえているものと別の聞こえているもの、あるいは、見えているものと聞こえているものとが、その断絶を越えて、響き合ったり、反発し合ったり、重なったりズレたりするという、その関係(複雑なダイアグラム)を見、聴く必要があって、しかもそれを分解して理解するのではなく、頭のなかで立体的に組み立てていかなくてはならなくて、それはすごく大変なことなのだが、それが出来た瞬間に、今までに観たこともないような光景がばーっと広がるのだ。
この場面に関して、ぼくははじめて観てから二十年もかかって、ようやくここまで来ることが出来たということなのだ。すぐれた作品というのは、そういうもので、そう簡単には手が届かないし触れることも出来ないのだと思う。
でもそれでぐったり疲れてしまって、残りはまた後ほどということで、テープを止めた。
●今日もとてもよい天気だった。