サントリー学芸賞岩井克人による選評(というか要約)を読むと、『記号と再帰--記号論の形式・プログラムの必然性』(田中久美子)という本が面白そう。
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0065.html
以下、岩井克人による選評の抜粋。
《(…)記号論にはソシュールとC.S.パースという二人の創始者がおり、バビロンの混乱にある。ソシュール記号論は、記号を指し示すもの(シニフィアン)と指し示されるもの(シニフィエ)の結合体とみなす「二元論」であり、パースの記号論は、記号とは指し示すもの(表意体)が解釈項を通して指し示されるもの(対象)に至ることであるという「三元論」になっている。》
《それ(プログラミング言語)によって明らかになるのは、「関数型」と「オブジェクト指向型」というプログラミング言語の二つのパラダイムがそれぞれ二元的と三元的な構造をもっており、しかもその対立にも関わらず、形式的には同値だということである。これから田中氏は、ソシュールの二元論とパースの三元論は、記号の二つの表現形態にすぎず、記号論としては同値であるという仮説を導くのである。》
《後期のヴィトゲンシュタインが強調したように、記号(言語)の意味とはその「使用」である。実際、ソシュールとパースの対立は、記号の使用を記号モデルの外に置くか内に据えるかの違いに解消される。それは、前者においては記号同士の全体論的な関係を呼び起こし、後者では一つの記号を他の記号で置き換えていく解釈項を作動させることになる。いずれの場合も、モノの標識という意味づけを失った記号は、他の記号との関係の中に投機的に導入され、その使用を通して自らの意味を事後的に確定していくより他はない。それゆえ、記号の意味とは本質的に「投機的」であり、必然的に「再帰」(自己実現)の問題を抱え込むことになる。記号についての考察とは、窮極的に、記号の再帰の困難さについての考察に他ならないのである。》
●二元論(ソシュール)と三元論(パース)の違いが、「記号の使用」(行為の執行)を《記号モデルの外に置くか内に据えるかの違い》であり、それが《前者においては記号同士の全体論的な関係を呼び起こし、後者では一つの記号を他の記号で置き換えていく解釈項を作動させる》というのは分かり易いけど、でもそれって結構根本的な、相容れない立ち位置の違いであるように思えるのだが、それらが形式的には「同値」である、というのが面白い。というか、素朴にそれってどういうことなんのだろうという興味を引かれる。
素朴に考えるならば、形式的な必然として、二元論は記号を三人称的に記述し、三元論は一人称的に記述することになると思うのだが(『論理哲学論考』と『哲学探究』の違い、みたいな)、それがどのように「同値」となるのだろうかという興味。これは、三人称と一人称が人間においては必然的に混同され、それによって時間が発生するみたいな(超大ざっぱでいい加減な要約です)郡司ペギオ幸夫とかの話とも繋がるのだろうか。
●あと、ブログでこの本の書評をしている谷口忠大という人の、『コミュニケーションするロボットは創れるか--記号創発システムの機械論的アプローチ』という本も面白そう。この谷口さんという人は、『記号と再帰』について、自身の本や研究領域ととても近いという感触をもちつつも、《書かれていることはわかるのだが,本書をとおして,なんの問題が解きほぐされたのか…、よくわからなかった》と書いているけど。
谷口忠大による『記号と再帰』の書評。
http://tanichu.com/book-review/347%e3%80%8c%e8%a8%98%e5%8f%b7%e3%81%a8%e5%86%8d%e5%b8%b0%e3%80%8d%e8%a8%98%e5%8f%b7%e8%ab%96%e3%81%ae%e5%bd%a2%e5%bc%8f%e3%83%bb%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%a0%e3%81%ae%e5%bf%85
●おそらく、投機(前に向かって進む時間)と再帰(後ろに向かって進む時間)ということがらを、たんに記号の意味(の確定の困難さとか)の次元だけで扱ってもあまり面白くなくて、その双方向的な関係(再帰の困難さ)という話が、(個々の記号の意味だけでなく)その後の記号読解(再帰)と再投機のあり様(記号を産出するシステム)そのものを変えてしまう「システムの創発」の話にまでつながり、それをどのように捉えるのかという話にまでならなければ、単調な形式論になってしまうのだろうと思う。
ここで「創発」とか簡単に言っても、それを外から三人称的にみるのか、創発され変質するシステムの内部から一人称的にみるのかで、その像は全然違ったものになるはずなのだが。