●『松ケ根乱射事件』(山下敦弘)。久々にDVDで。救いもなければカタストロフもない。ただ、ひたすらストレスがきりきりと高まって行くばかり。希望にも絶望に安易に逃げることがない。肩に力が入ってもいなければ、抜けてもいない。ひたすらもやもやする。そういう地点に留まりつづける。これは本当にすごいことだと思う。
冒頭近くの検死室での女性の全裸死体(後に生き返る)の撮り方を観て、この監督は人間を何故平気でこんな風に撮ることができるのか、と背筋が寒くなる。意図的に、世界や人物を突き放しているのではなく、世界や人物のすごく近くにいるにもかかわらず、そこに愛着のようなものが成立していない感じ。この(非共感的)非人間的なまなざしが独自のユーモアを生む。しかしこのユーモアはまったく甘くないし笑えもしない。この映画は、好きになることも嫌いになることも許されない。『リンダ・リンダ・リンダ』や『天然コケッコー』の裏にも、このまなざしが貼りついているのだ。
ただ、弱い点がふたつだけあると思った。それは前に観た時の感想とまったく同じだった。
(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20070902)
まず、最後の方で、弟である警官が、街全体の水道にネコイラズを混ぜるにはどうしたらよいのかと役所に聞きにゆく場面があること。この場面で、警官のひたすらなストレスの高まりが安易に「狂気」という形象に着地し、カタストロフ(という着地点)を想像させてしまう。閉ざされた地方都市で何かが歪んでゆくという紋切型にちかづく。それに、この場面によって、最後の「乱射事件」のショボさが台無しになってしまう。
もう一つは三浦友和が立派すぎること。「ダメな父親」を演じる三浦友和の「立派な演技」をみると、頼りがいを感じてしまい、どうしても安心してしまう。ここで父親は、見ただけで軽くイラッとくるような、本当に見るからにダメな人である必要があったのではないか。三浦友和の出ている場面だけが、妙に分かり易くなってしまっているように思う。三浦友和の頼れそうな存在感が、観客にとっての逃げ道になってしまう(でも、三浦友和が出てなかったら、この映画を観続けることに耐えられなくなったかもしれない、つまりこの映画の「強さ」に負けてしまったかもしれないのだけど。それはつまり、この映画をつくった山下監督自身もまた、この映画の世界に耐え切れなくて、どこかで救いを求めたということなのかもしれない。三浦友和を介してのみ、観客も、作り手も、映画自身も、「人間的な弱さ」の場を確保できるということなのかも)。
●あと、この映画を観ながらずっと、描写と伏線について考えていた。描写がいつしか(結果として)伏線となり、しかしその伏線が結局着地しないので、伏線としての機能が失調する。このもやもやした感じ。ただ、ネズミのネタだけは、着地点らしきものが示されて(伏線が伏線として機能して)しまうのだ。
●春の光