●昨日ウェブで、オーディトリウム渋谷で『ゴダール・ソシアリスム』を上映していることを知った。午前中、ビデオで『ゴダールリア王』を観ていたら、もうたまらなくなって、半分くらいでテープは止めて、出かけることにした(『ゴダール・ソシアリスム』を観るのは二度目になる)。十六時四十分からの上映に間に合った。東急の前を通り過ぎたのに、フェルメールのことはまったく思い出しもしなかった。最近、人生で何度目かのゴダールマイブームが盛り上がりつつある。このブームが少し下火になるまで平倉圭の本は読まないことに決めた(おそらく平倉さんの本はとても「強い」と思うので、きっとそっちに引っ張られ過ぎてしまうだろうから、そうではなくもう少し自力で探りを入れたい)。
ゴダール・ソシアリスム』はすごすぎる。一回目に観た時は、最初の十五分くらいはなんとか集中してついていけたけど、それで既に疲れ切ってしまって、残りはぼーっと流すようにしか見られなかった。
二回目の今日は、ふらふらになりがらも、なんとか最後までくらいついて観た。それにしても、第三楽章の分からなさは何なのかと思う。
ぼくにとって『ゴダール・ソシアリスム』の第一楽章は、自分の身体や神経が耐えられるぎりぎりマックスのところで現れる圧倒的な美しさという感じで、混沌の一歩手前でたちあがる(混沌と紙一重の)ものすごい強さの秩序の予感を、なんとかかんとかぼくの貧しい感覚で触知する(自らの感覚-身体内で再構成する)ことが出来る(気がする)けど、これ以上先に行かれたら、今のぼくには混沌にしか見えないと思う。
(第一楽章でかなりいっぱいいっぱいになるので、第二楽章が今までのゴダールに近い感じでちょっと安心するのだが、しかし、もっとちゃんと観ると違うのかもしれない。)
そして、第三楽章が、まさにそういう感じ。こんなに過激な、あるいは自由過ぎる、あるいは滅茶苦茶にしかみえないモンタージュを、映画あるいは作品と呼んでもいいのかどうか、今のぼくには何とも言えない。ここから何か、「ある感覚」を見つけ出せるのだろうか。あと十年くらいかけて、ぼくはぼくなりに、自分で制作したり、人の作品に触れたり、いろいろ考えたりすることで、ここに多少でも触れらるようになるかもしれないし、やっぱこれは分かんない、ということなのかもしれない。そういうスパンで考えれるしかないし、それに足りる作品だと思う。
今までぼくは、ゴダールは八十年代の作品が一番好きだったのだが、今、盛り上がりつつあるゴダールマイブームのなかでは、圧倒的に九十年代以降(正確には87年の『右側に気をつけろ』以降)の作品が面白い。それは、ぼくの感覚がようやく九十年代以降のゴダールに追いつきはじめたということだと思う。
池袋まで行って、もう一つ、レイトショーでやっている『魔法少女を忘れない』(堀禎一)を観たかったのだが、ふらふらになってしまったのと、明日のシンポジウムの準備もしなくてはいけないので、そのまま帰ることにした。
●帰りの電車のなかで、五人の家族連れと、二人組の十代くらいの女性と、三人組の二十代くらいの女性のグループがいて、それぞれ別々にがやがや喋っていて、その声がなんとなく耳に入っていた。ある時、家族連れの母親の言った言葉を、十代の女性の一人が受け、それに二十代の女性の一人が反応した、かのように聞こえた偶然の重なりがあって(勿論、実際は別々に喋っている)、おお、なんてゴダール的な瞬間なのか、と思った。
複数の独立した系が、リズムもタイミングもズレつつ同時にあって、それらが、前面に出たり、背景へ後退したり、裏に引っ込んだりしつつ持続していて、それらが独立しつつも、一瞬、火花のように同期したり衝突したり反発したり、あるいは立体的な図柄を作ったりして、すぐにまたバラバラになるというのが、だいたいいつもゴダールの映画のなかで起こっていること(勿論、それだけではないけど)だと思うのだが(それが、映像、音声、テキスト(音声でもあるテキストとしての言葉、映像でもあるテキストとしての字幕)という異なる次元のそれぞれで、同時に起こっている)、八十年代にはそれが大らかな感じであったのだが(その大らかな感じは今でも大好きだけど)、もう、どんどん複雑になり、引き締まって、煮詰まってきて、『ゴダール・ソシアリスム』の第一楽章では、(少なくともぼくにとっては)崩壊寸前で感覚可能なぎりぎりのところにまで行っているのだと思う。八十歳でここまで行けるんだなあ、と。