●昨日よほど疲れたのか、目が覚めたらもう暗くなりはじめていた。夜中に一度起きてしまって、朝方に寝なおしたからなのだが、それでもせいぜい昼くらいまでで目覚めると思っていたのだが。
●『リアリズムの宿』(山下敦弘)をDVDで。これはすばらしかった。『ばかのハコ船』がどうしても好きになれなかったので、初期三部作は避けていたのだけど、山下敦弘はこの作品で飛躍したのか、と思った。序盤の男二人のパート、中盤の男二人+女一人のパート、そして終盤の男二人に戻ったパートと三つのパートに分かれると思うけど、序盤から中盤、中盤から終盤への展開というか転換が、その前の部分を観ている時の予測を常に裏切り、上回ってゆく。「ああ、こういう感じなのね、悪くないよね」とか思っていると、「えー、そうくるのか」と驚かされ、予測が覆される。しかもそれは、たんなる意外性を狙ったということとは違っている。特に中盤の男二人+女一人のパートは、確かに悪くないけどこの黄金パターンで収めてしまうのはちょっと姿勢が「守り」の感じなのではないかと感じはじめるところで、絶妙のタイミングで、絶妙のやり方で女が去ってゆく。この場面がすばらしい。
そしてその後、どんどんショボくなってゆく展開がとても良い。このショボさのリアルさは、たんにあるあるネタ的なリアリズムでもないし、過度に露悪的でもなく、かといってスタイリッシュに収めているわけでもない。普通こんなことありえないだろうという意味ではリアリズムではないのだが、しかし「でも、こういうショボさってあるよなあ」という意味でリアルなのだ。で、それを支えているのが描写力なのだと思う。描写される内容によってではなく、描写力によって生まれるリアルさ。この終盤の部分に、たんに「上手い」というだけではない、(『松ケ根乱射事件』に直接つながるような)山下敦弘の作家としての核のようなものが感じられる。ショボさはあくまでたんなるショボさであって決して「哀愁」とかそういう「型」にはまらない(特定の感情に納まらない)、この感じを映画として表現型を与えたのは山下敦弘がはじめてなのではないか。
そして、最後に一度去った女が再度あらわれるのだが、これがまたすばらしい。この女に関しては、いってみれば具体的なことはまったく描かれてはいないのだが、最後にもう一度帰って来ることで、たんに謎の存在ではなく、リアルな存在として(男たちとは別のショボさを抱えた人物として)、その現実的な厚みがバーッとひろがってゆく。
『松ケ根連射事件』では、この女の側から世界をみているとも言える。山下敦弘の描写力は、ある意味で離人症的な世界との距離感によって成立していると思うのだが、『リアリズムの宿』では中心にいる男二人は旅行者であり、自分たち自身のショボさを抱えているとはいえ、終盤の「世界そのもののショボさ」からは切り離されているのだが(帰るべき別の場所があるのだが)、実は(男たちのショボさとは無縁であるようにみえた)女こそが、この、世界そのもののショボさの側にいて、男二人とは違ってそこから離れることが出来ない。『松ケ根乱射事件』では、そのショボさが内在的に描かれるからこそ、描写はいっそう非人情的になってゆく。
そしてその後のエンドクレジットで「くるり」が流れるのがまた絶妙で、ここでこれなのかと感心する。ぼくははじめてくるりにぐっときた。
この映画は、序盤で男たち二人のショボさが描かれ、中盤で女が加わることでそれがやや華やぎつつ揺らいで、終盤では男たちのショボさを越える世界そのもののショボさが示され、最後に女が世界そのもののショボさの側にいたことが示される、という映画だとも言える。
●で、山下敦弘は、この後が『くりいむレモン』で、その次が『リンダ・リンダ・リンダ』なのと考えると、この三作の飛躍はすさまじいなあと思う。『くりいむレモン』なんて、はじめから特定の性的な好みを持った男性の欲望に奉仕するためだけの企画で、映画作家としては、こんな企画を引き受けても、どう考えても勝ち目のない戦いだとしか思えないのだが、それをあそこまでの作品にしてしまうのだからただ事ではないと思う。そこには、『リアリズムの宿』を撮ったという手応えがあって、それでも行けるという自信があったのかもしれないと思った。