●空間は具体的で、かつ抽象的なものだろう。空間とは、物と物との関係であり、その「物と物との関係」と、その関係-配置の内部にある「身体(その内部で動く何かしらもの)」との関係でもあろう。だからそれは、具体的な(特定の、固有な、交換出来ない)物たちによって出来ている固有なものであり、その内部で動く具体的な(固有な組成をもつ)何ものかに対して、その都度固有の状況として出現するという意味で、具体的なものであろう。
しかし、空間は物でできているとしても物そのものではなく、あくまでも複数の物たちの関係である。そして、その関係-配置は、その内部で動くものに対して、そこにおいてどのように運動(行動)を組織してゆくことが可能であるのか、という可能性の複数性として現れる(ここで運動は、空間-関係そのものの改変をも含む)。その可能性は、ある固有の動くものが、実際に(結果として)そのように動いたということの具体性によって尽くされるものではない。空間は、関係であり可能性(潜在性)であるという意味で抽象的なものであろう。
空間の複雑さを見ることの喜びは、そこに含まれる(様々な意味、様々な次元での)運動の可能性の複数性を浴びることで、それを見る身体においても複数の可能性が同時に起動して共振し、さらに、身体においては共振不可能なほど多様な空間の可能性が、それを見る身体にその限定性を乗り越えさせ、身体(運動)の変形(あるいはその可能性)にまで導こうとするからではないか。
●空間たち。