●何かしらの動きが発動する時、その一瞬手前で、脳がその動きを準備-待機する。だが、その準備-待機は、実際にそう動いた、実際に発動した動きだけでなく、複数の別の動きが同時に(半-駆動状態で)待機されているはずだ。この現実のなかで、次に何が起こるのかを完全に予測することは出来ないので、起こり得るいくつかの可能性を想定し、そのそれぞれに対応可能な動きが準備-待機されていなければならないから。それは意識の水準でではなく、脳の無数の神経間のネットワークの働きにおいてという水準での話だが。
複数の異なる動きが同時に準備-待機されるとしても、実際に発動する動きは、唯一の軌道をもった具体的で特定の「ある一つの動き」だろう。その動きが発動されることで、それ以外の動きはこの世界に現れない。それは意識的な過程ではないから記憶にも残らない。だが、その「実際には発動しなかった他の動き」は、はじめから無かったと言えるのだろうか。あるいは、思弁的な「(そうであったかもしれないがそうではなかった)可能性」という形でしかとらえることが出来ないのだろうか。
しかしその、この世界に生まれなかった動きは、脳の神経間の電気信号のネットワークという次元においては、実際に準備-待機された(つまり、実際に発現した)のだ。それは発現とは言えず、半-発現と言うべきものかもしれないのだが。もし、脳の神経間で行われている過程のすべてをスキャンすることが出来るとすれば、そこには同時に準備-待機された(半-駆動した)、異なる複数の運動の共存状態が具体的にあらわれているはずだろう。
ぼくにとって、写真を見たり撮ったりすることの興奮は、このような、行動の一瞬手前の脳の状態を見ている感じに近いのだと思う(ぼくは写真一般のことを言っているのではまったくないし、いわゆる「作品」としての写真のことを言っているのでもない)。そこに映っている(そこから読み取れる)空間には、ぼくがその場所で実際に行った「動き」とは別の動きの可能性がいくつも重ね描きされている。それだけでなく、ぼくの身体がおこない得る「動き」の可能性をはるかに超えた、別の身体として(鳥だったりミミズだったり子供だったり自動車だったり風だったり光だったりとして)可能な動きの可能性が無数に圧縮されて重ね描きされている。
それを見ている時、たんにそこから可能性を読んでいるだけでなく、脳はおそらく、実際の動きの一瞬前の準備-待機(半-駆動)状態になっているので、半分くらいは、実際に(同時に)鳥だったりミミズだったり子供だったりして、そこを(同時に複数の動きとして)動いているのだと思う。それが可能なのは、写真が、実際の時間、空間から切り離されつつも(それを見ている者が自らの身体の置かれる具体的な文脈から切り離されて、空間-身体関係の具体性が抽象化しつつも)、その空間に成立している「諸関係」の一部を写真が正確に保存しているからだろう。
複数の異なる運動が、同時に準備-待機(半-駆動)されているとしても、運動が実際に発動(駆動)されてしまえば、それは特定の一つの軌道をもつ一つ運動となり、それ以外は消える(あるいは、継起的にあらわれる)しかない。複数の可能性が一挙に提示されたとしても、我々はそれを一つずつ、継起的に読んでゆくしかない。一挙性というのは常に一挙性の不可能性としてしかあらわれない(原理的に、一挙に捉えられるものとは差異であり関係であるはずだから、一挙性のなかには既に時間が含まれている)。しかし、それを継起的時間のなかに解体してしまえば、「それが一挙に与えられていること」の意味が消えてしまう。だからそれは、具体的に「動く(読む)こと」が動き出す一歩手前の準備-待機(半-駆動)の状態として、ある抽象性(抽象的な手触り)として把握されなければなないだろう。
つまりそのようにすれば、潜在的な可能性(の複数性)は、思弁的に捉えられるだけでなく、感覚として実感可能なのだ。これは写真に限ったことではなく、芸術というのは様々なやり方でそれを実現しようとすることだと思う。
(しかし、物語はふたたびそれを一元的な意味に解釈して定着させようとしてしまう。)