●小林耕平を観るために練馬区立美術館に行ったのだが、おそらく新作だと思われる「2-9-1」がすごかった。どうしてこんなことが出来てしまうのか。小林耕平は、世界のまったくあたらしい様相を次々に発見し、開発しつづけているように思う。きっと、マネが現代を生きていたらこんな作品をつくったのではないか。あるいは、シュルレアリスムの理念は小林耕平においてはじめて表現としての十分な強さと充実を得たと言えるのではないか。あるいは、ビデオカメラという装置は、小林耕平の作品が実現されるために開発され、商品化されたのではないか。あるいは、レーモン・ルーセルが小林耕平の作品を観たらどれだけ興奮しただろうか。
物と物、物とイメージ、物と身体、物と重力、物とフレーム、フレームとフレーム外、限定することとそれを開くこと、身体と重力、イメージと言語、聴覚イメージと視覚イメージ、時間と空間、静止しているものと動くもの、固定している(安定している)ものと変化する(不安定な)もの、能動と受動、出会いと出会いそこない、期待とはぐらかし、連続と断絶、正解と誤解、予想可能であることと唐突であること、相互反射と無関係性、これらの様々な項の関係と無関係、あるいは変化と静止とが、無数の系となり、フレームがそれを同時に存在させ、それらが織りなす錯綜するダイアグラムが、一見大したことはなにも起こっていないかのようなフレームのなかにめまいがするほどみっしりと詰め込まれている。どこかの作業場の一角のような場所をフィックスのカメラが捉え、そのフレームを一人の人物が出たり入ったりして、ぽつりぽつりと言葉を発するだけなのに、そこに世界を構成するあらゆる運動があるかのような複雑な状態が実現されている。ある限定された範囲や要素に還元することで世界のあり様(ある側面)を表現するのではなく、ごく限定された少ない要素を用いて、無限であるかのような複雑な状態へと発展させてゆく。それでいてその時空は全体としてきわめて緩くて寛容な雰囲気で、つまりそこにはまだ別の何物かが到来する余白がたっぷりと開かれたまま放置されているという感触。
おそらく、作品をつくることとは、具体的になにかとなにかとをあるやり方で関係させることだと思うけど、同時に、それを通じて、その「関係のさせ方」そのものの新たなあり様を探り、創造することだと思う。小林耕平は、ビデオカメラを使うことで、今まで見たこともなかったような、なにかとなにかとの新たな関係のさせ方を、(超絶技巧や複雑な手続きによってではなく)なんでもないような手つきで(あるいは仕草で)、世界のなかからふっと拾い上げることが出来るのだと思う。それはおそらく小林耕平という人の独自な手つきなのだと思う。実際、作品に作家自身がその身体を参入させていることの意味はすごく大きい。一体、どこまで真剣でどこまでふざけているのかうかがい知れないようなその作品の独特な感触は、その映像に見られる作家自身の姿の、真剣なのかふざけているのか、上機嫌なのか不機嫌なのかさえ、その表情からではうかがい知れない、飄々とした感触に多くを負っていると思う。
つまりここで言う手つきとか仕草とかは比喩ではなく、小林耕平という人の身体と不可分なもので、小林耕平と世界(場所や物)とカメラとの関係のなかから出てくるものなのだと思う。ここで作家は、パフォーマーとディレクターという二役をやっているのではなく、パフォーマーであることによってディレクターなのであり、ディレクターであることによってパフォーマーなのだと思う。自分自身がその一部である世界のなかに、ある働きかけをすることで、ある状態、ある関係を生み出そうとしている、というか。世界を配置する、配置される者。だから、三人称であると同時に一人称である、というのではなく、三人称から一人称が生まれ、一人称から三人称が生まれる、その生成の媒介としてビデオカメラが用いられる、ということではないだろうか(「2-9-1」で小林耕平はおそらく、モニターを観ながら動きを決めて動いている)。
●映画をつくっている人が小林耕平の作品を観たらどう思うのだろうかと思う。滅茶苦茶刺激になるんじゃないかと思うのだが。例えば、小林耕平における(オブジェであると同時に運動である)自転車の機能の仕方、とか。