●『ring my bell』では、音楽家が音楽家として生活している時間、空間に説得力があるというようなことを昨日書いたけど、ぼくがそれを特に強く感じたのは、以前にコアオブベルズが小林耕平と一緒につくった『The making of PRECIOUS TIME ONLY YOU』という作品を観ていたこともあると思う。この作品のなかに映っているコアオブベルズのメンバーたちの感じと、『ring my bell』の二人の登場人物の(フィクションの中での)存在の仕方が、同質のものであるように思われたのだ。そしてこの『The making of…』は、『ring my bell』の発想の元にもなっているように思われる。それで、もう一度観てみた。
●この作品は、小林耕平が演出する、コアオブベルズの『PRECIOUS TIME ONLY YOU』という曲のプロモーションビデオのメイキングということになっているのだが(ディスクには『PRECIOUS…』のプロモーションビデオも収録されており、本来ならそっちがメインのはずなのだが)、通常の「そのようなもの」とはまったく異なる。
深い森のなかの川べりで撮影されており、メンバーが担当するそれぞれの楽器と、小林耕平の作品のなかでは「おなじみ」の様々な物たちが持ち込まれ、たき火がたかれている。そこで、小林耕平によって出される様々な無理なミッション(例えば「川を完全に防音しろ」とか「二人以上の男性で一人の女性を形成しろ」とか)を、メンバーたちが(楽器や、小林的な物たちや、その環境にある物を用いて)遂行し、また、それについてメンバー相互で検討し、改良してゆく、というさまが、なんというか、ぐだぐだな時間のなかで進行してゆく。つまり、普通に見やすい形では編集されていない。
まず第一に面白いのは、メンバーたちがガチであること。正直、ぼくにはそのミッションそれ自体はそんなに面白いとは思えないのだが、重要なのは、それを受け取ったメンバーが、機知やユーモアでかわしたり、はぐらかしたりはせずに、それをまさに「真に受ける」ような形で受け取っており、しかもその結果について他のメンバーがガチでダメだししたりする。普通に考えれば、なんでそんなことを真剣に議論しているのか、というようなことが真剣になされている(ここで、メンバーのそれぞれの「きっとこういう人なんだろう」という感じがけっこう見えてもくる)。
しかし同時に、自分のやっていることには真剣でも、必ずしも他の人のやっていることをちゃんと見ているとは限らなくて(それは、それぞれのメンバーが立っている位置などにも関係していて、たんに見えなかったり、聞こえなかったりもする)、感想を求められても、「えっ、いま何が問題になってたんでしたっけ」みたいな答えがかえってきたりする。実際、画面がたき火の煙に覆われてしまい、「今のはかなり完成度が高かったんじゃないかと思う」という声が聞こえても、何がなされているのかまったく見えず、「ごめんごめん、今、煙でまったく見えなかったからもう一度やって」となったりする。つまり、それぞれガチであっても、「ある一つの問題」が必ずしも共有されているわけではない。互いに、見えたり見えなかったり、重なったり重ならなかったりする(ぼくは経験がないのだが、きっとこの「めんどくさい感じ」こそが、バンドをやるっていうことなのではないか)。
それに、もともとの問題が問題だけに、それがあるはっきりとした形をもつものとしての「結果」に結びつくことはなく、なんとなくぐたぐだに終わる。そもそも問い自体が、有用性が求められるものではない。しかしとはいえ、その、真剣だが何のためになされるのかよく分からない取り組みがぐたぐたした時間のなかでなされるという流れのうちに、探求が、確かにある一定の深まりや展開をみせるさまも、映像には記録されている。ぐたぐだな時間も、たんに拡散するだけでなく、問いかけと試みと展開という、ある一定の進行と運動の方向性を持っている。このことはけっこう重要だと思う。
そこにあるのは、互いに重なったり重ならなかったりするそれぞれの問題のぐだぐだな時間のなかでの真剣な探究だけではない。そこには常に川の流れがあり、木々があり、河原の石ころがあり、雑多に散らばった(使われることのない)小林的物たちがあり、射す光があり、岩があり、川の流れる音をはじめ様々な環境音がある。画面を平板にするほど均質に細部を捉えるデジタルカメラや指向性の弱いマイクは、それらの、関係があったりなかったりする様々なものたちを過剰に取り込み、映し出す。
つまり、(フレーミングや編集のされ方も含め)「これを見ろ」と強く差し出す力が弱く、見る者は常に気が散るようになっている。まあ、普通に聴きづらく見づらいのだが、たんにノイジーであるだけではないというのは、既に述べてきたとおりで、この作品を「どのように観ることが出来るのか」ということそのものが作品からの問いかけであり、それへの試みと展開として、この作品を観るという行為があるのでないか。ここに映っているコアオブベルズのメンバーと同様に、それを真に受け、真剣に試行してみる者が、この作品の面白さを(その都度)創造することが出来るのだと思う。