●今がいちばんいい時で、これからどんどん日が短くなってゆくのかと思うと、それだけですこし憂鬱になる。晴れていて、いつまでも日が暮れないと、それだけでうれしい。光と陽気だけを糧に生きてる気がする。でも、暗いのが嫌いなわけではない。
目黒雅叙園にあるビルのなかのウォルト・ディズニー・スタジオ試写室に、『ツリー・オブ・ライフ』(テレンス・マリック)を観に行った。目黒駅からいかにも東京っぽい坂を下って行く。とても驚いた。そして面白かった。そして重かった。正直、この作品のすべてをまるっと肯定的に受け入れるのは難しいけど、半端ではない振り切り様に、唖然とし、感動もした。
この作品には、今までテレンス・マリックがやってきたことがより一層研ぎ澄まされたという部分と、今までの作品の全否定にもなりかねない部分とが、水と油のように分離している。さらに、作品として高い緊張と生々しさを達成している部分と、空疎で白々しいとさえ言えてしまうような観念的な部分とがあり、水と油のように分離している。実際、ブラッド・ピット親子の部分だけでまとめれば、誰でもが抵抗なく傑作だと言える作品になったはず。なのに、普通に「えっ、この人いったいどうしちゃったの、この映画、大丈夫なの?」と誰が観ても驚くような展開がある。だが、そこから帰ってきた後の(マジで行きっぱなしになるんじゃないかとも思えるのだが)、これまた半端ではない充実ぶりもすごい。振り切れ方も半端ないけど、その後の充実も半端ない。そして、いったん振り切れてしまったことが、作品全体(主に時間のあり様)に大きな質的変化をもたらしていると思う(時間そのものを否定しているかのような映画となった)。
繰り返すが、この映画をまるごと肯定することはぼくには難しい。でも、とんでもなくすごいことになっているのは確かだと思う。ある意味、うんざりもさせられるのだが、その、うんざりさせるまでやり切ってしまうことによって、はじめてこの映画が可能になったのだということも納得できる。
ぼくはこの日記で最近何度も、デジタル技術が「映画(映像、イメージ、あるいは語り)」のあり様を大きく変えてしまっているということを書いているけど(堀禎一鎮西尚一、小林耕平、そして青木淳悟など)、この映画でも、デジタル技術の使用が、テレンス・マリックという作家のあり様の根本を揺るがしてしまっているように思う。CGを使っちゃったら(CGがとても見事に使われている)、この人が今まで苦労して、「過剰なほどに美しい光の撮影」を追っかけていた意味はどこへ行ってしまうのか、と。CGでここまで出来ちゃうんだ、と思うと、普通の場面でも、この美しい光も、ちょっとどこか手を入れてあるんじゃないのと感じられるようになってしまう。あるいは、CGでつくっちゃえばいいんじゃん、と感じるようになってしまう。美しければ美しいほど嘘っぽく見えてしまう。デジタル技術がリアリズムを崩壊させてしまう。しかしこの映画では、もう一方で、マリック的なリアリズム(切り返しをしない、構図を決めない、視線を追わない、アクションで繋げない、時間を滑らかにしない、物語を語らない等)の一層の研ぎ澄ましによって、デジタルの攻勢を十分に押し返している。俳優の力もすばらしくて、ブラッド・ヒットも、ショーン・ペンの子供時代を演じた子役も、一か所も緊張が抜ける場面がない。この拮抗による緊張がすごい。
テレンス・マリックの独自の語り方は、前の『ニュー・ワールド』の時はぼくにはよく分からなかったというか、まったくピンとこなかった。なんでこういう撮り方をして、なんでこういう繋げ方をするのか、そこにどのような必然性があるのか、わからなかった。撮り方と題材の関係も、こういう撮り方をするのに何故こういう題材なのか、分からなかった。撮り方と俳優の演技との関係もよく分からなかった。しかし、『ツリー・オブ・ライフ』では、テレンス・マリック風の語りが、一つ突き抜けて新しい地点にまで到達しているように思った。最初の方の、時間も場所も浮遊してふらふら不安定な感じも面白いし、まあ「ぶっ飛んだ展開」は置いておいても、その後のプラビ親子のてん末部分は緊張が漲って緩むところがない。最後にまた、えーっ、そこまでやっちゃうの的な展開になるのだが…。そして、最後の「そこまでやっちゃうの展開」と、途中の「ぶっ飛んだ展開」は齟齬をきたしていると思うのだが…。