●『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌)をDVDで。まあ、楽しめた。でも、アニメーションの欲望に忠実な部分(縮尺の違いの表現が面白かった)と、何かを言いたい(メッセージ)的な部分とのバランスがすごく悪い感じ。でも、それがジブリっぽいところで、『ファンタスティックMr.FOX』みたいな完璧にセンスのいい映画をジブリにつくられても、それはそれで引いてしまうのかもしれない。
とはいえ、例えば主人公の男の子をもう少し魅力的な子にしてあげようよ、とは思う。善意でしたこととはいえ、自分の行為が相手に決定的なダメージを与えてしまっているのに、相手に「君たちは滅びゆく種族なんだ」とか平気で言うし、それで相手がキレると今度は、「ぼくは病気で死にそうなんだ」と同情を買おうとする。それはいくらなんでも自己中過ぎるだろうと誰でも思うと思うのだが…。マジョリティの無自覚な善意に潜む暴力性のようなものを示そうとしているのは分かるけど、これじゃあ男の子がただの嫌な奴になってしまう。細部をこれだけ丁寧に作り込んでいるのだから、そういうところももっとちゃんと丁寧にやろうよ、と思ってしまう。ハナさんという家政婦のキャラクターも、もうひとひねり欲しい気がする。
●どちらもマイノリティであるイギリスの小人とコロボックル(スピラーはアイヌ風と言うよりマタギ風だけど)とが出会って異種交配的に生き延びてゆく、というのも分からないではないけど、そのような政治性(という言い方でいいのだろうか)と、この物語の根本的な魅力を支えている、古い屋敷に地霊のような見えない存在が住み着いていて、それと共に生きているという幻想性が、どうもうまくかみ合っていないように思われた。例えば、小人は先祖代々この屋敷に住んでいるようでもあり(幻想性)、けっこう頻繁に引っ越しを繰り返しているようでもある(横断性)。マイノリティの異種交配性(横断性)というようなことがやりたいのだったら、この物語じゃないんじゃないかと思ってしまう。
圧倒的に力が優位である人間からしたら、小人は地霊のような幻想の対象だけど、力の弱い小人からしたら、人間はひたすら恐怖の対象であると同時に、そこから富をかすめ取る対象でしかないという、そういうみもふたもない、夢もなにもない関係の非対称性の話なのだった(だからこそ、人間の側の暴力の代表である家政婦のキャラをもっとちゃんと作り込まないと、と思う、単純な悪役なのか、もっと得体のしれない何かなのか、それともたんに軽薄で考えが足りないだけなのか、とか)。アリエッティは人間の少年に惹かれながらも、自分たちの存在の継続のために、コロボックル(風)の男の子との間に子供をつくるだろう。でもなんか、そういうの分かり易過ぎる気もする。
アリエッティの髪を留めるクリップは、猫耳というより昆虫の触手(「触角」の間違い、触手って…)のようなイメージなのか。カラスがよかった。エンドクレジットで、小人目線で見られるフナの描写が、ちょっと『ポニョ』っぽくて、おおーっと思った。
●今日のらくがき。「plants」。