●引用、メモ。ブルーノ・ラトゥール「<社会的なもの>の終焉/アクターネットワーク理論とガブリエル・タルド」(「VOL 05」)より。
タルドは、社会学の創生期にデュルケムのライバルだった人で、デュルケム的な社会学ヘゲモニーを握るようになって一時忘れ去られたのだが、ドゥルーズに大きな影響を与えた人として最近再評価がすすんでいる、というような人らしい。一見、トンデモ風だけど、よく考えてみるととても面白い(うかつに読むと素朴なアナーキズムにみえてしまうかもしれないけど、全然違うと思う)。
タルドの特異なモナドジー。自然/人間の分割の拒否、ミクロ/マクロの区分の拒否、「社会的なもの」というメタレベルの拒否。「小」がつねに「大」より複雑であること。
タルドは自分の研究概要を示すにあたり、人間の象徴的秩序という特殊な領域としての「社会的なもの」について語る代わりに、さまざまな科学領域のいたるところで出現している考え方、つまり彼の言う「モナド論」について語り始める(…)》
モナドたちは私たちをまったく「還元論的」なひとつの形而上学的ヴィジョンへと導いてゆく。つまり「大」を理解するための鍵は、つねに「小」が握っているというヴィジョンである。》
《つまり、もっとも小さな実体は、その集合体の塊---塊のように見えるのは、たんに私たちが離れたところから眺めるからなのだが---にくらべて、つねにより複雑で、より豊かな差異を示している、と言うのである。》
タルドは社会を考えるにあたり、社会が個々のモナドより上位にあり、より複雑で、より秩序だっているものと考えることを拒否するだけでなく、個々の人間という因子(エージェント)が社会を構成する現実的素材であると考えることも拒否する。すなわち、脳や精神、魂、身体といったものは、それ自体が無数の「小さなペルソナ」、あるいは小さな媒介者(エージェンシー)たちから構成されており、それぞれが信念と欲望を授けられ、自分の全体世界をつくりだそうと努めている、というのである。》
●人間社会が他のあらゆるものと連続的であること。いわば、「社会」と「世界」とを分けないこと。そして、階層構造の拒否。
《デュルケムのように「社会的事実をモノのように扱わなければならない」と述べる代わりに、タルドは「あらゆる事物は社会である」と述べ、あらゆる現象は社会的事実であると述べる。》
モナドたちの社会はまったく一般的な現象であり、世界はモナドから出発して構成されている。その意味で人間界のうちに新しいものは何もないのだ。》
《(人間社会に特殊性があるとすれば)第一の特徴は、私たちが人間社会について語るとき、私たちは人間社会をいわば「裏返し」に眺めているという特徴である。「(…)というのも、人間社会こそ私たちの居場所であり、都市や国家、軍隊や修道会と呼ばれる人間たちの秩序あるシステムにとって、私たち自身がその真の要素になっているからであり、私たちはそこで起こるあらゆることを認識するからである」》
《そこから、人間社会という私たちがよく認識している唯一の集団において、競合するモナドたちのあいだから超有機的なものが生じる事態などありえないということは、すぐに理解されることになる。》
《私たちが脳の神経細胞からさまざまな特性が生じると信じ込んでいるのは、私たちが脳の神経細胞が結びついた集合体を内側から眺めることができないからにすぎない。しかし人間社会にかんしては、私たちはそこに「集合的自我」など存在しないことをはっきりと知っている。というのも代議士は、ポップスが「可死の神」と述べたリヴァイアサンではなく、つねに私たちの一員であり、ある一組の父母から生まれた人間であり、たんに自分の属する集団を「彼自身あるいは彼女自身のうちに個人として表現する」ことができるにすぎないからである。》
●では何故、社会的な秩序が成立するのか。あるモナドが自分の思い描いた世界を他のモナドたちと共有することによってだ、と。まず「ひとつのモナド」が何かを思い描くこと。
《私たちは社会学科において、文化や社会、階級、国民国家といったものの複雑さや、そこにそなわる高度な秩序、そこに生じているさまざまな特徴、それらのマクロ的構造について語ることに慣れきっており、(…)しかしタルドはそのような階層秩序とは無縁である。大きなものや全体や巨大なものは、モナドたちの上位にあるのではないどころか、より単純で、より標準化されたものにすぎない。それは、あるモナドが自分の目標を達成することに成功し、自分の思い描いた世界を他のモナドたちと共有したことを示しているだけなのである。》
《「そのような美しい秩序が起こるためには、その調和が実現される以前に、誰かによって認識されなければならない。社会的調和は、それが広大な領域を覆うようになる以前に、なんらかの脳細胞のなかで、ひとつの観念として存在することがなかったとしたら、そもそも起こりえないのである」》
《徹底した還元主義者であったタルドは、標準化の働き---これは目に見えるマクロな変化の典型例である---でさえも、その下の水準(もちろん「下の水準」というのは正しい比喩ではないのだが)にあるひとつの要素がもたらした影響に帰着する、と述べるに至る。》
《「(人間の)社会を眺めてみれば、私たちがその内側で認識することができる唯一の対象として見いだすのは、その因子、つまり人間たちである。彼らのそれぞれは、統治機構、法律や信仰の体系、辞書、文法といった、彼らの協力によって維持されているものにくらべて、格段に差異化しており、個々に特徴をそなえ、たえず豊かな変異を示している。ひとつの歴史的事実は、(そこに参加していた)行為者たちのどのひとりの精神状態にくらべても、より単純で、より明快である」》
●ある秩序が、ひとつのモナドによって思い描かれたものが共有されたものだということとは逆向きに、ひとつのモナドの思いもまた、おおくのモナドの思いによって成立していること。
《(…)社会において多くの他者たち---たいていは見知らぬ他者たち---の協力がなければ、いかなる個体も社会的に働くことはできず、また、なんらかの仕方でみずからを表現することもできない(…)。目立たない働き手たちが、小さな事実の発見を積みかさねながら、ひとつの偉大な科学理論の出現を準備し、それをニュートンやキュヴィエ、ダーウィンといった人物が定式化する。これらの天才的人物は、目立たない働き手たちが構成する一種の有機体にとって、魂なのである。彼らの仕事は脳内のさまざまな振動に相当し、偉大な理論は意識に相当する。(…)ひとつのモナドだけでは何もできないのである」》
《(…)あるネットワークを理解するためには、それを構成している行為者(アクター)を探さなくてはならないが、ある行為者を理解するためには、それが構成しているネットワークを探さなくてはならないのである。》
●しかしだからこそ、(いわゆる)マクロな秩序は常にその内部に抵抗を抱え、解体の危機にある。
《「(…)それぞれの巨大な規則的メカニズム(…)の内部に生じ、最終的にそのシステムを破壊することになるあらゆる種類の反抗は、同じような条件から引き起こされるという事実である。つまり、それぞれのシステムの構成要素---多種多様な部隊の兵士たちのようなもので、一時的に自分たちの法を具現している---が自分たちの構成している世界に属しているのは、ある面では自分たちが存在するためにすぎないが、別の面ではその世界から逃れるためである。この世界は彼らという要素がなければ存在できない。しかし、世界がなければ要素もまた存続できない。各兵士(すなわち各要素)の性質は、所属する部隊のなかで彼が具現している属性だけから構成されているわけではない。そこには、彼が別の部隊にいたときに身につけた傾向や性向も含まれている。さらに彼自身の根源、つまり彼自身の固有かつ根本的な実体に由来する別の傾向があり、彼はその傾向に支えられて集合的勢力に抵抗して戦うのである。そしてその集合的勢力は、それと戦っている彼自身もその一部をなしているのだが、それは張りぼてで囲まれた表層的実在にすぎないものである」》
《それぞれのモナドは、あらゆる「上位」の秩序という表層的実在からはみ出しながら、自分が存在するためにその一部を「張りぼて」の秩序に貸し与えるのである。モナドたちのある側面をつかむことはできても、けっしてモナドたちを支配することはできないのである。》
タルドがこのような奇妙なモナドジーによって成そうとしていることは、要するに階層構造を水平的に開くということだと思う。
《法則に従属する主体と法則のあいだの区別こそが、たとえ他の社会学者たちにとって自明視されていたとしても、タルドモナド論によって打ち砕こうとしたものである。》
《成員(エージェント)の行為(アクト)を、その成員のうえに作用(アクト)している法則と切り離し、そこに区別を設けるからである。そもそも、物質主義者たちが盲目の原子の振る舞いのうちに潜んでいる自然法則について語ることは、精神主義者たちがそれらの原子になんらかの意思と目的を授けるよりも、さらに精神主義的(スピリチュアル)である。(…)物質主義者たちがそのような「神秘的な命令」を信じているのは、彼らのエビステモロジーが、行為者自身(アクタント)が自分たちの集合体をつくるために努力しているという事実を、彼らの科学から切り離しているからである。》
●そして、同一性の哲学ではなく、所有の哲学。私は、私の所有物(属性)たちと、「渇望」や「信念」を共有しているのだ、と。
《同一性の哲学(もちろん同一性の政治学も?)ほど不毛なものはないが、所有の哲学(おそらくは所有の政治学も?)は調和なき連帯と愛着をつくりだすのだ。》
《「存在」の哲学において実体が<本質>によって定義されるとしたら、<所有>の哲学においては、実体はそれ自身のさまざまな<属性=所有物>と<渇望>によって定義される。》
《同一性の哲学を拒否することは、最終的にひとつの帰結をもたらす。(…)その帰結とは、人間以外の事物の地位にかんするものである。(…)すでに100年も前に、本質から属性へと目を転じることで、その問題にたいする健全な解決策を提出している。「外部の宇宙全体は、私と異なるさまざまな魂から構成されており、しかも、それら他の魂たちは根底において私の魂と似ているのだ」》
《「石や草それ自体の存在を知ることはできないと認めながら、それらが存在していると言い続けることは、理論的に破綻している。それらの実態について私たちが構成する観念を示すことはかんたんである。すなわち、その観念は私たちの精神状態を全内容としているのであって、かりに私たちの精神状態を空っぽにすればそこには何ものこらないだろう。(…)かりに実体それ自体がほんとうは私たちの存在に似ているとしたら、もはや実体は不可知のものではなくなるのだ」》
《どうすればホタテ貝や細菌、ドアの部品、岩、自動車などの道具を、意思や信念をもつ事物とみなすことができるのか、それらの代弁をしているのはつねに人間であるというのに。しかし私たちは、タルドの理論のなかにラディカルではあるが健全な解決策をみつけだした。すなわち、「君が自分の所有する事物とのあいだに渇望や信念を共有したくないのであれば、それらの事物が何であるかを語ることをやめてしまえ」というわけである。》