●投手によってボールが投げられ、打者のスイングがボールの芯とバットの芯とを的確に対応させるという出来事が起こる。この出来事は、イメージでも言語でもない。しかし、その打ち返されたボールが、ヒットになったりならなかったりするのは、野球というゲームの体系の問題であり、いわば、出来事が象徴的体系へと回収されるということだ。野球において、バットがボールの芯を捉える時の精度によって進塁が決まるわけではないし、ホームランの飛距離によって得点が増減するわけでもない。象徴体系は出来事をざっくりとしか捉えない。しかし野球においては、その網の目の粗さも含めて、ゲームは複雑化し、割り切れない面白みが生まれる。完璧な当たりが野手の正面に飛んだり、平凡なフライが風でホームランになったりすることの納得のいかなさ(割り切れないことのなかに強引に境界を確定してゆく様)が、ゲームの不確定要素を増加させ、それによって呼び込まれる想定外の出来事が事態を複雑化する。どこまでも複雑で高度なものへと進展し得る出来事(出来事を生む技術)の繊細さと、それを「ゲーム(の勝敗)」へと翻訳する象徴体系の粗さのギャップが、ゲーム内に「運命」のような割り切れなさや固有の感触を生むだろう(「結果を出す」ことへの神秘主義とか)。そして人はそこに惹かれるだろう。もし、ゲームの象徴体系が、出来事の繊細さに限りなく近づくとしたら、より身体能力が高く、より技術の高い方が、ほとんど常に勝つ、という結果になるだろう(専門の審査員が得点をつける競技のようになる、勿論そこにも、評価する事柄の配置・配点という象徴体系が存在するのだが…)。
象徴体系は、出来事の繊細さにざっくりと粗雑に白黒つけるが、しかし出来事全体を梱包するわけでも支配する力があるわけでもない。象徴体系の次元での進み行きだけが問題であるならば(あるいは、野球のプレイやプレイヤーのあり様を社会や人生の写像として、あるいは自身の写像(スター)としてみる、つまりイメージとして見るだけならば)、少年野球も大リーグも変わらないし、そもそも野球盤でも十分だということになる。しかし人は、そのプレーの質の違いをちゃんと感知するし、それこそを楽しみもする(その時おそらく、象徴でもイメージでもないものを感知している)。むしろ、ざっくりと粗い象徴体系によって、大リーガーのプレイと野球盤上の出来事という、まったく質の違う出来事が共鳴するとさえ言える。
象徴体系は、出来事のメタ・レベルとなり、それを代表(表象)するのでは決してなく、象徴体系の粗さと出来事の繊細さは、同じ次元にあって、混じり合うことなく矛盾したまま共働する。その時、混じり合わない者の共働が顕在化する場が、さまざまな意味での「個」という場ではないか。