●知性とはパターン認識であり、パターン認識はこの世界のなかに再帰性(同一なものの回帰)を見出す。そして、パターンの安定的な再帰性(への期待)を支えている根拠として概念化されたものが「事物(パターンを表現すると同時に保持する支持体-媒体)」と言うとする。事物とはまず概念である。
バットの芯がボールの芯を捉えるという出来事が、偶然に一度だけ起きた出来事ではなく、ある打者においては、繰り返し、高い確率で再帰する。この時、打者は、身体化された知性(再帰性)としての「技術」をもつ。技術とは、出来事の再帰を高い確率でもたらすことの出来る何かのことだ。もしこの打者が、どんな投手のどんなボール、どんな場合でも確実にボールの芯を捉えるという技術をもつとすれば、この出来事の再帰性は完全なものとなる(出来事が自己同一性を得る)。この時、出来事は、打者の技術という媒介=媒質を得ることによって事物化する、と言っていいのだろうか。いや、そうではなく、出来事(ボールとバットとの一定の関係)を完全に再帰させ得る、この打者の「技術」こそが「事物(媒質)」とされるべきではないか。ある出来事=関係を保持するための支持体を媒体(媒質)と言うのであれば、技術こそ物質=媒体と呼ばれるべきではないか、と。あるいは、この技術をもつ「個」のことこそが「事物」だ、と。
だが、ではもし、この打者の技術が95%の再帰性しかもたないとすると、それは事物とは言えないのだろうか。95%の事物、95%の再帰性、95%の同一性しかもたない事物。5%の不確実性をもった事物ということを考えることは可能なのだろうか(関係を100%では再帰させない媒体、としての事物)。でも、もしかするとそれはとても普通のことではないのだろうか(いくら探しても見つからなかった物が、ある時ふと、何度も探したところから出てくる、とか)。あるいは50%では…。五割の確率で確実にミート出来るというのは、打者としてはすばらしい技術だと言ってよいだろう。だがしかし、二回に一回しか正解を導かないアルゴリズムというのはありなのか。それは正しいのか間違っているのか(しかし五割の確率で未来を予想してくれる占いがあれば、かなり助かるのではないか)。あるいは、二回に一回しか存在しない植木鉢というのはあり得るのか。ベランダの鉢植が、今、あるのかないのか、窓を開けてみないと分からない、というような。
ところで、唐突だが絵画というのは、支持体と絵の具によって何らかのイメージを構成するというより、支持体と絵の具とイメージとの関係によって「ある出来事」を構成するものなのではないか。絵の具や支持体が媒体なのではなく、絵の具と支持体とイメージとの間にある関係こそが事物-媒体であって、その媒体-関係がある出来事を保続(再帰化可能に)する。そしてその時、出来事を関係へと翻訳し(というより、関係を見出すことによって出来事化し)、再帰可能な関係性を具体的な物質の組み合わせへとより集めてゆく技術をもつ媒体-個として、「画家」がいるのではないか。打者のスイングがそれ自体としていくら完璧であったとしても、それがボールとの関係(芯と芯との接触)を見出せなければ出来事とはならない。同様に、画家の筆触はそれ自体としては意味をなさず、複数のものたちを関係づける(絵の具と画布と重力とイメージと…)ための身振り(媒体)となることによって出来事を生む。
いくつもの異なる力が関係する時、その「関係」そのものであり、「関係づける身振り(関係の発見)」であり、「関係づける技術(関係を可能にする力)」でもある「個=媒体=事物」としての画家。媒体とは絵画ではなくむしろ画家ではないか。もちろんこの画家は、たんにその絵を描いた(この世界のなかで普通に生きている)特定の人のことではなく、ある絵画作品があって、そこから遡行的に見出される「それを描いた手」のことだろう。
粗くて未整理な考えだが、「Happy Days」(国分寺スイッチポイントの展示を観ながら、以上のようなことを考えていた。