●作品を進展させてゆく時にあり得る方向性には、大ざっぱに二種類あると思う。一つは、作品そのものの構造をより複雑にしていったり、細部の解像度をあげてゆくという方向性。もう一つは、作品それ自体のあり様はシンプルであっても、そのシンプルさが、それを見るそれぞれ人の脳や身体の複雑さや深さに作用するようなかたちを探ってゆくという方向性。もちろん、両者は相容れないわけではない。
●例えば、コンピューターは、0と1という単純な二元性を無限に増殖させてゆくことで複雑な演算を可能にする。一方、人の脳は、無数の神経細胞間のネットワークというそれ自体として既に複雑な状態を、ある特定の感覚、感情、意識、意味、行為へと縮減してゆく。だからそこには常に、割り切れない余剰が発生する。コンピューターにとって情報の最小単位である0/1を、人の脳が処理しようとするとき、それは既に複雑さとしてある無数のネットワークの状態を0/1という二元性へと縮減するという過程を経る必要があり、そこには潜在的に0/1以上の情報が(不可避的に)含まれてしまう。逆に言えば、0/1という最小単位の情報に、(人に対しては)それ以上の潜在性を込めることが可能になる。
●だが、そこに含まれる潜在的情報は、それぞれ固有の脳や身体の深さにおいて作用するから、ある外的な客観性や形式性(例えば文法とか文脈とか論理のような)によっては捉えられない。
●通常、人は、自分とは異なる脳や身体(つまり他人)とコミュニケーションする時、その捉え慣れなさ、不確定さを、いわば事前に織り込んだ上で、情報のやり取りをする。だがその織り込みは大ざっぱなものであり(そもそも他者の脳や身体を経験することは出来ないので、その「織り込み」は大ざっぱでなければ作動しない)、常にエラーが生じる。それはつまり、どのようなエラーが生じるのかは事前には分からないが、一定の割合でエラーは生じるのだということを「織り込んでおく」ということだろう。
●つまりそれは、あるエラーが顕在化した時、そのエラーの具体性によって、はじめて他人の脳や身体の深さの一端を感じることが出来る、ということではないか。だとすれば、それぞれの脳や身体の深さにおいて作用する作品とは、そのようなエラー(の具体性)を導くような装置だとも言えないだろうか。
●だがしかし、エラーだけではダメなんだな、とも思う。