●「VOL 05」でタルドについて書いていた(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110704)ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』という本を半分くらい(「第三章 革命」まで)読んだ。でも、第二章のホップスとボイルの空気ポンプの話は、もう一度、丁寧に読む必要がある(ここの部分の具体的な感触をもうちょっとしっかり把握しないと、全体の読み取りが平板になる感じ)。
この本は簡単に言えば、以下のようなことが書かれている。
《この世界に唯の一人も近代人だった者はいない。近代世界など端から存在しなかったのである。ここで過去完了形を使ったことが重要である。それは過去を振り返って得た感想だからだ。つまり、歴史の読み替えを行っているのであって、新しい時代に突入したと言っているのではない。反対にポストモダンの、さらにポストのポストなどという向う見ずな飛翔はしなくてもよい。》
《この回顧的態度は何かを暴露するのではなく、ただ議論を展開する。減算を行うのではなく加算を行う。糾弾するのではなく折り合いをつけようとする。仮面を剥がすのではなく分類しようとする。そしてそれは非近代non-modernとしての特徴をもつ。》
《実はこれまで私たちは前に進んだことも後に戻ったこともない。たださまざまな時代に属する要素を熱心に分類してきただけだ。分類はいまも可能である。そしてこの分類こそが時間を作り出すのであって、時間が分類を生み出すのではない。近代は、反近代や前近代同様、全体の名の下に少数の代理人が下す選択の暫定的帰結ということに過ぎない。私たちのうちより多くの人々が自分たちの時代に属する要素を見分ける能力を取り戻せば、近代が妨げていた移動の自由は確保できる。》
近代主義でも、反近代でも脱近代でもなく非近代。で、それは読み替え(「近代なんて実はなかった」としたら…)としてある。近代だと見えていたものの裏でもずっとちゃんと非近代が作動していて、でもそれは近代の「憲法」によって見えないものとされていた、と。
ラトゥールによると近代(の作動原理である「憲法」)の特徴は、本来ハイブリッドとしてあるものを分離し、純化しようとすることだ、と(純化を「憲法」とすることで、ハイブリッド-媒介を「目に見える世界」から排除し、それによって逆説的にその抑制を解き、コントロール不能に暴走させてしまった、と)。近代では、「主体(社会や人間的文化)」と「対象(自然、物自体)」とが純粋抽出されて分割され、永遠に触れ合えないものとして遠ざけられた上で、その双方を仲介する中間項が果てしなく細分化されつつ(ごちゃごちゃとめんどくさく)探られる、と。
《近代という実践は、主体由来のものと対象由来のものを抽出するため、まず異種混合を分割する。次に仲介を倍増させ、自ら破壊してしまった統合を取り戻そうとする。壊したとはいえ、純粋形のブレンドを通じていま一度、手に入れたかった統合である。したがって、分析と統合から成るこれら一連の操作には、常に三つの側面がある。予備的純化、分割分離、そして漸進的な再統合である。そこでの説明の要点は、起点を常に両端に置き、そこから中間領域へと向かうということである。当初、分離点だった中間領域は、やがて対立する素材の結合点となる---これが、カントの傑出した議論に登場する現象場である。こうして中間領域は、維持されては廃棄され、認知されては否定され、言い表されては抑圧されてきた。だからこそ、私たちは自家撞着を起こさずにこう宣言することができるのである。誰ひとりとして近代に到達した者はいない。私たちは皆、近代であろうとすることを止めなければならない。》
《失われた統一を取り戻すために、仲介の数を増やさなければならないことはこれまで常に認知されてきたではないか。(…)もっとも、これらの仲介を純粋形のブレンドと見なしているなら、私たちは依然、近代という盲信を抜け出していない。こうしてみると明らかなのは、相違の全貌が媒介と仲介という二つの概念の微妙な違いに端を発しているということである。》
《彼らは、仲介が必要だと認識していたが、ただそれを「憲法」の一極からエネルギーを運びだし、他極へと移し変えるもの、伝達するだけのものと捉えた。仲介の中身は空洞で、あまり信用できないとか、透明か不透明だとか、問題にできることは限られていた。もっとも、媒介はそれ自体、自律的な出来事であり、媒介者は自ら媒介する相手の存在者も、翻訳する内容自体も作り出す。もしこうした媒介の役割がすべての行為主体において回復すれば、同じ存在者によって構成される同一の世界がそれだけで近代であることを止め、これまで一度も消滅したことのない非近代という世界となって表舞台に躍り出るだろう。》
●この本の三章では、近代以降の哲学が次々とぶった斬られるのだが、記号論記号学には割合と優しげだ。それは、記号学が主体でも対象でもない媒介(準モノ、準主体)としての言語に注目するからだ。しかし媒介を言語(あるいは記号)だけに限定してしまったために、言語は媒介の力を失い、けっきょく、主体と自然と言説という三つの極の純化=分離となってしまった、と。
《自律的な言語なくして、自然と社会の中間領域に準モノ、準主体を住まわすことは不可能である。さまざまな形態をもつ記号論が、言語による媒介を理解するための格好の道具箱になる。ただその反面、指示対象との繋がり、コンテクストとの関係という二重の難題を避けて通ろうとするものだから、最後まで準モノを追跡することが出来ない。》
《宇宙全体を壮大な物語に、亜原子物理学をテクストに、地下鉄システムを修辞上の技巧に、そしてすべての社会構造を言説に還元することなど到底不可能である。》
《前述したように、これらの準モノは事実的、社会的、言説的であるという性質を併せ持つ。自然にも、人間集合体にも、言説にも属している。それを、自然は認識論者の手に、社会は社会学者の手に委ね、そして言説は自動化するとなれば、これら三つの材料を一つに縫い合わせることなど到底できはしないのである。》
●ラトゥールは、主体と対象という「既にある二極」ではなく、その中間でしかも下方にある不定形な「媒介」の作動する場をイメージさせるため、自然と社会という左右の二極を結ぶ水平の直線(緯線)の中間に、水平線(緯線)から垂直に下方に延びる直線(経線)を引き(Tのような形となる)、その上方(緯線と交わるところ)を「本質」とし、下方を「実存」とする地図を描く(つまり、媒介が媒介的であるほど、実存に近づく)。そして、自然と社会という二極がまずあるのではなく、最初に中間、かつ下方の実存(媒介)の領域で何かが起こり、それが徐々に(「勾配」をつくりつつ)二極の方へと移動してゆき、時間をかけて安定化してゆくとする。そのたとえとしてプレートテクトニクスを示す。
ただ、この図自体はちょっと単調な気がするので、この先にもっと何かあるのだろう(いや、この具体例が17世紀の「空気ポンプ」なのだから、まずここのところをちゃんと読み直さなければ…)。
《私はその転回(カントのコペルニクス的転回のこと)の撤回を、両端の二極を中心方向へ、さらに下方へとずらす動きと定義し、コペルニクス的反転回と呼ぶことにしたい。反転回によって、対象と主体は準モノや媒介の実践の周りを回ることになる。対象あるいは主体/社会の二つの純粋形に説明を加える必要はない。それらは、私たちが関心を寄せている中心的な実践が生み出す部分的な結果、純化された結果に他ならないからだ。私たちが求めている説明によっても、自然と社会を提供することはできる。ただそれは最終的な成果物であって、最初から与えられるものではない。》
《曇りのない真正な事実は誰が作り出したものでもないと実在論者が言明すれば、構成論者が、社会的事実は私たちの手によって形作られたと断言する。中間領域の唱道者は(これは良かれあしかれの話なのだが)、「〜であるだけでなく、多少〜でもある」という公式を使いながら、「事実」の二つの意味の間を揺れ動く。それは事実の製造が直線の真下で、媒介の働きを通して行われるからである。》
《自然と社会の巨大な塊は、さしずめ、プレートテクトニクス(構造地質学)でいうところの冷却した大陸地殻だろう。その運動や変化について知りたかったら、マグマが噴出する灼熱の地層にまで降りて行かなければならない。噴出物はずっと後になってかなり離れた場所で冷却し、堆積した溶岩となる。私たちの足元をしっかりと支える二つの大陸プレートがこうしてできあがる。地球物理学者のように、地中奥深く、混合物が生み出されるその場所にまで私たちも降りて行かねばならない。その混合物がずっと後になって自然や社会の諸側面を構成するようになるからだ。これからは存在物の経度だけでなく緯度も特定すべきだというのは行き過ぎた提案だろうか。本質を出来事や軌跡として見る必要があるというのは過大な要求だろうか。》
●とはいえ、ぼくにはこのようなイメージよりも、訳注に引用されているラトゥールの別の本(『科学論の実在---パンドラの希望』)の次の部分にとても強いインパクトを受けた。というか、そうそう、そうなんだよな、何かを探っていくってこういう感じなんだよな、という感じ。
《科学論は、すでに世界の構成要素となっている実体から議論を始めるのではなく、複雑で議論の余地の多い、どのようにしてアクターが存在しはじめるようになるかの仮定に焦点を合わせる。鍵となるのは、アクターを、実験室の試行においてそれがなすこと---そのパフォーマンス---によって定義することである。後に、その能力は演繹され、制度の一部となる。》
●あと、三章の「革命」というタイトルの両義性(と、そこに絡む「時間」の概念)が面白い。ここには、近代が常に「革命」を強いる時間を構成することを批判しつつ、「革命」を求めない時間の構成へ移行することこそが、結果として社会の革命的な変化とつながるのだ、というニュアンスがある。
この章では、カントからポストモダンまで、様々な近代以降の哲学がバサバサと斬られるのだが、それよりも、この「時間」についての部分が面白い。この部分を読んでいると、荒川修作が思い出される。
《その昔ニーチェが書き記したように、近代人は歴史偏重という病に冒されているのである。彼らは、何でも残しておきたい。何にでも日付をつけておきたい。それも過去から完全に切り離されると考えるからである。革命を重ねてゆくほどに、貯蔵するものは増えてゆく。資本化が進行するほどに、博物館の展示物は増えていく。狂気じみた破壊は、同じく狂気じみた保存によって平衡を保たれている。》
《偶然と必然の区別、歴史的なものと無時間的なものの区別があるために、近代人の歴史は非人間つまりモノの出現によって区切られることになる。ピタゴラスの定理太陽中心説、重力の法則、蒸気機関、ラヴォアジエの化学、パスツールのワクチン、原子爆弾、コンピュータ---これら非人間の一つひとつが出現するたびに、当の非人間の奇跡的誕生を起点として、そこから新たな時代が始まったものとみなされる。それぞれの具現物が世俗化し、それが超越的な科学の歴史の中に位置づけられる。》
《近代の時間性はユダヤ教キリスト教に関連したものではない。幸いなことに恒久的なものでもない。(それ自体、歴史は持たないが歴史に登場する)自然のものと、(決して歴史を離れることがない)人間の労苦や情熱とを情け容赦なく分離し、直線を一本の矢に変形する。そして中央王国をその上に投影する。近代の時間性とはそうしたものである。そこでは自然と文化のアシメトリーが、過去と未来のアシメトリーへと拡張されている。過去には人間とモノとの混同状態が生じていたが、未来には混同状態から自由になるというわけだ。》
《過去とは決別した新しい時間を生きている---そうした極めて近代的な印象を与えるものとはいったい何だろう。(…)時間の不可逆的な進行という印象は、私たちの日常宇宙を作り出す要素を一括りにしたときに初めてそこから生じてくる。それは要素の系統的な結合の効果である。またこの系統的な結合を、それにつづいて起こる同じく系統だった他の結合と入れ替えることで、過ぎ行く時間の印象、過去から未来へと途切れなく続く流れの印象が生じてくる。それがペギーの言う「脚立」である。事物に歩調を揃えさせることで、それらすべてを同時代に所属させるというわけだ。(…)近代の時間性は事物に課せられた「再教育」の賜物なのである。厳格な規律で縛り上げなければ、さまざまな時代に属し、多様な存在論的身分を持つものが林立してしまう。》
《近代人が、ハイブリッドに関わる詳細な事実をことごとく削除するのと平行して実践するのが、再配置した異なる種類のものを一括し、それを全体として理解することなのである。現代と定義される要素のすべてがカレンダーに沿うように同時代に所属して初めて、近代化は確かに進行しているという印象が生まれる。》
《私は電気ドリルを使うが、金槌も使う。電気ドリルは三五年前に、金槌は数十万年前に開発された。読者はそんな私を、異なる時代に属する手作業を混在させるという意味で、「対照的な道具を使う」DIY上級者と見なすだろうか。私は、民俗学者の興味を掻き立てる対象だろうか。そうではないだろう。近代の立場からみて「同質」と判断できる活動を一つでも挙げてみてほしい。私の遺伝子は、その起源が五億年前のもの、三〇〇万年前のもの、あるいは一〇万年前のものとさまざまである。私の習慣は作られてから二、三日のものから何千年経過したものまである。ペギーの『クリオ』が主張するように、はたまたミシェル・セールが繰り返し述懐するように、「私たちは時間の交換局、時間の醸造人なのである」。まさに時間の交換が私たちに輪郭を与えているのであって、近代人が作り出した暦や時間の流れが輪郭を与えているのではない。》
《(…)「伝統」を生み出すために、人々は絶えず革新を引き起こし、革命、認識論的断然津、古典派と近代派との対決といった同じような儀式を繰り返すことで過去を何度も通過させなければならない。生まれながらに「伝統的」なものなど存在せず、絶えず繰り返される革新を通して、自ら選択して「伝統的」になるのである。まったく同一の過去が繰り返し現れるという考え方と、どのような過去からも断絶してゆくという考え方は、実は、同じ一つの時間観念から生じる二つのシメトリカル(対称的)な帰結である。私たちは過去や伝統に戻ることも反復することも許されない。なぜなら、そうした大いなる不動領域は、今日私たちにはもはや約束されることのない地球像---進歩、永久革命、近代化、前方への飛翔---を逆さに投影したものだからである。》
●最初の方に引用したことだけど、たとえ《近代は、反近代や前近代同様、全体の名の下に少数の代理人が下す選択の暫定的帰結ということに過ぎない》のだとしても、それでも《全体の名の下に》選択を下そうとする《少数の代理人》をどうするのか、という問題は依然大きくあるようにも思える。そう考えてしまうことこそが、近代の病ということかもしれないけど。だが実際、《現代と定義される要素のすべて》を《カレンダーに沿うように》、《一括し》て《再配置》し、「現代」を《全体として理解》できるようにする、みたいなことを一生懸命やってる人は、今もなお無数にいる。
●ぼくはここに、以下の荒川修作の言葉を繋げてみたい。おそらくラトゥールは、アラカワのような極端な議論には否定的なのではないか。しかし、少なくとも時間に関する話は、それを延長していけばアラカワと連続的であるように思われる。『荒川修作の軌跡と奇跡』(塚原史)より。
《カレンダーだって全部変えちゃう。こんな幾何学的なカレンダーじゃない。僕たちのつくった街には、今あるようなジオメトリーはすべてなくなるんだ。「僕は、今日は四メートル二センチくらいある、昨日の夜は一メートルくらいだった」、そういうふうに話をしなければならない。真実がそうなんだよ。僕たちは嘘の世界に住んでるんだよ。一〇〇パーセント、嘘の世界に住んでるんだ。すべての大切なものを、全部切られてしまったんだ。》
《いいかね、二一世紀のはじめの僕たちは、まだ五〇〇万年前の人類と同じくらいプリミティブか、少し悪いくらいでしかないんだ。それなのに飛行機があるから、船があるから(人類は進歩した)といっているだろう。冗談じゃない。彼らのほうがもっとよく知っていた。彼らは敏感じゃないと生きていけないから、われわれよりもずっと科学者だったんだ。どのようにして遠くの音を聴くか、どのようにしてバイブレーションを感じるか。耳だけを使ったんじゃない、もっと全身を使ったんだ。服の着方だって、このような着方なんかしてないよ。どこかを必ず開けていたんだ。敏感に感じるように。それこそ、科学・哲学・芸術を総合して着物を着ていた。今から見るとみっともない、変なものを着ていた、と思うかもしれないが、向こうから見たらわれわれのほうがみっともない。わかるかね、われわれがどれほどプリミティブな世界に住んでいるか。どれほど希望のない世界に住んでいるか。全部希望をぶった切られた。ひとつも残ってない。》
●ぼく自身は、アラカワほどの誇大な野望をもっているわけではないけど、それでも、《「僕は、今日は四メートル二センチくらいある、昨日の夜は一メートルくらいだった」》という話がちゃんと正確に出来るのか、あるいは《科学・哲学・芸術を総合して着物を着ていた》みたいな行為がちゃんと実践出来るのか、あるいはそういう場をつくることが出来るのか、ということはとても切実なことだ。