●中倉智徳が描き出すタルドの「発明と模倣」、ラトゥールの言う「代理派遣」、清水高志が描き出すライプニッツやセールの「媒介」や「ネットワーク」等が、いわゆる表象代表(リプレゼンテーション)的な思考の枠組みと根本的に異なるところは、「代理」はするけど「代表」はしないというところではないだろうか。
いかにネットワークの重要性や匿名的な力を言い立てようとも、それをある固有名や特定の言説、作品、集団によって「代表」しようとするならば(あるいは根拠づけようとするならば)、「代表する権利」についての闘争から(つまり、私と私の鏡像との間の、あまりに古臭い主従闘争から)逃れられなくなる。
私は、何の正当性とも関係なく、たんに彼について、彼に代わって語るが、それは既に別の誰かの言葉と入り混じっていて、私の言葉は彼を表象しはしない。私が語る彼の言葉は、ばめから私のものでも彼のものでもない。この、代理しつつも「代表しない」思考が、差異が差異へと際限なく無限に送り返されるという類の思考とも違うのは(あるいは、社会構築論的なものとも違うのは)、そこに「媒介(それは佐藤雄一の言う「固有値としての支持体」と、ぼくのなかではぴったりと重なる)」こそが世界へと通じているという「信」があるというところではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20101012
私の語る彼の言葉は、世界のなか(ネットワークのなか)での耐久性によって測られる。つまりそれが「世界」を信じるということになる。
それ(媒介-固有値)は出発点(媒介、具体性)であると同時に到達点(固有値としての支持体、理念)であり、だからこそ、あり得べき「超越性」として機能する。つまりそれは、「この世界そのもの(そしてそのなかにいる「人間」)を信仰する」ことを可能にする。
●模倣(ネットワーク)の法則について仔細に分析しながらも、「発明」という出来事が生じるのはあくまで様々な模倣が反響する結節点としての「個人」であるとするタルドの議論では、つまり「発明する個人」こそが「固有値としての支持体」を生む可能性をもつことになる。発明が、既存のネットワークやアーキテクチャに依存するものではなく(それは発明ではなく再生産-模倣である)、「新たなもの」として、複数のアーキテクチャ(ネットワーク、文脈)のハイブリッドとして起こるためにこそ、個という(ある意味「閉じられた」)結節点が必要となる。個人とは、そのような様々な交雑の、それぞれに異なる可能性としてある。そこで、ある一つの偶然の交雑でしかない「個」の場で起こった「発明」が、「固有値」となり得るとしたら、そこには「脳の協働」あるいは共鳴という現象が(ネットワークを通じて)起こる必要がある。
●引用、メモ。『ガブリエル・タルド』(中倉智徳)、第二章「政治経済学を裏返す」より。
《「発明と模倣は、富と価値の唯一の社会的な源泉である」ということになる。富が富となるために信念と欲望が必要であるということは、具体的な品物やサービスを生産する者たちだけでなく、信念と欲望を発明によって生産する者と、それを受容し模倣によって再生産する者とが必要であるということである。タルドによれば、事物やサービスを富であると思わせる欲望を真に生産するのは、芸術家や詩人たちである。》
タルドは、知識としての富の生産の事例として、書物の生産を挙げている。(…)書物は物体として「接触可能、領有可能、交換可能で消費可能」なものであり、この意味においては他の富と同様であるが、それは書物の価値の一面を捉えたものにすぎない。書物それ自身が、「知的で領有不可能、交換不可能で本質的に消費不可能なもの」としての科学的な価値や文学的な価値をもつものだからである。(…)書物の価値は、書物を手放したところで失われはしない知識や情報などの信念にあるからである。この意味で、書物の「所有は本質的に集合的である」ということができる。》
《発明が多数の人びとのあいだで模倣されていたものの結合であったことを考慮すれば、「書物はいまや、遠く離れた、以前と比べてお互いによく知らない協力者の助けを伴って作られている」ということもできる。ラッツァラートは、この信念と欲望の生産=発明がなされるためのこの協働関係を「脳の協働」と呼び、現代の資本主義における生産において大きな役割を果たしていると指摘した。》