●つづき、「黒つぐみ」について五回目。
A2は母のことを《獅子の性》であると言う。この部分がぼくにはどうもよく分からない。なんとなくは分かるような気もするのだが、そのなんとなくは、まだ理解には遠いけど手掛かりがある、あるいは、感じは分かるけどうまく表現できない、ということではなく、ごく一般的に、お座なりに、理解したと思おうとすれば、そのつもりにはなれるけど、という感じだ。
《このような比喩的な意味で、母は生まれながらの獅子の性だった、ただしそれはさまざまな制約を負うたひとりの女の現実生活のなかに封じこめられてはいたのだが。こんな言い方で君にわかるだろうか? ぼくらの考え方からすると、母は利発ではなかった(…)。情熱と視野のせまさとが結びついたら、ときとしてどういうことになるか、考えてもみたまえ。だがぼくはあえていいたいのだが、ぼくらがふつうある人をこれこれの化身だなどという、その化身としてのすがたと今日でも不可思議に合一している偉大さや性格があるのだよ、ちょうど昔話の時代に、神々が蛇や魚の姿を借りたようにね。》
特に難しくはない。決して賢明だとはいえないが、根底に強さをもった女性だったのだ、と理解しておけば済むところかもしれない。そのようなイメージは「母」の像としてはありふれてさえいるかもしれない。しかし、だとすれば《ちょうど昔話の時代に、神々が蛇や魚の姿を借りたようにね》などと付け加えられるのは、いかにも大げさだとはいえないだろうか。
ここで、母がわざわざ獅子とダブルイメージとして重ねられ、しかしその上でその《獅子の性》が、《現実生活のなかに封じこめられて》いるとする表現に、この小説全体を貫くある「響き(音調)」のようなものが感じられる。しかしここで、現実にあらわれている利発とは言えない母の、いわば《原本》として、本質として、獅子の性があるのだと受け取ってしまうと、理解が単調になってしまう気がする。そういう単純な本質論とは異なるもの、母と獅子とは、重なりながらもズレているような感触が、この部分だけでなく、この小説全体から受け取れるように思われる。獅子は、母の内部の奥深くに潜んで、母を律しているが、それは必ずしも母そのものとは一致せず、母の存在によって回収されない、というような感じ。獅子の性は、母以前からあり、母以後もずっとある。しかしそれを普遍的な何かと言ってしまうのも違う気がする。それは普遍的というより、神話的と言うべきものかもしれない。
つまり、ささやかなものだとしても、ここで神話的表現が出てきたとしても、それがこの小説の他の部分と共通した「響き」が感じられる、という程度に、この小説は神話的なものをその底に潜ませている、ということなのだろうか。
あと、些細なことだが、ここで唐突にあらわれる「ぼくら」とは何なのだろうか。たんに「我々にとって(一般的な、常識的な)」という程度の意味なのだろうか。これは過剰な深読みにすぎるかもしれないけど、A2がいきなり「ぼくら」と言い出すことで、A1とA2とがふっと重なってしまうような感じを持ってしまう。
母がこのような強いイメージとともに語られる一方で、父はあまりに希薄である。そもそも父は、母の意思に引きずられるように、母の死後すぐに亡くなってしまう。
《帰ってみると、父も病気だった。前にもいったとおり、ぼくは彼の死に手をかすことができたばかりだった。父は昔は気のいい人間だったが、その数週間は妙にわがままで気まぐれだった。まるでぼくにいろいろふくむところがあるかのよう、ぼくがいることで腹を立てているかのようだった。》
この、A2に対する《ふくむところがあるかのよう》な抵抗感のみが、この小説における父のほぼすべてだと言える。とはいえ、この部分はとても気になるのだが。
●A2は両親の死後、《所帯を整理》するために家に留まる。その間、《田舎町の住人たち》がときどきやって来て、《居間のどの席に父が座っていたか、母はどこに坐ったか》などをA2話して聞かせたりする。
《この田舎の住人というものは実にしつこく根掘り葉掘りするものだ、あるとき一切合財を綿密に調べあげたあげく、こんなことをいった男がいた、数週間で一家全滅とは、まったくとんでもないことさね!---ぼくを家族のうちに入れたものはひとりとしていなかった。》
故郷や実家は既に、A2にとって、そしてA2に対して、そのような疎遠な場所となっていた。そのような場所で、A2は家へ誰も訪れてこない時には《じっと座ったまま子供の本を読んでいた。屋根裏に子供の本ばかりでぎっしりつまった大きな箱を見つけていたのだ》。そして、《あるときぼくは異様な発見をした》。
《ページをめくる上端と下の余白の部分の黒さが、やっとわかる程度にではあるが、それでも黴にもとづく黒さとはちがっていることにぼくは気づいた。それからなんとも形容しがたいさまざまなしみが、そして最後のページの上には、消えかけたなぐり書きの鉛筆の痕が見いだされた。このとき突然、圧倒的な力強さでぼくは感じた、この猛烈ないため方、かき傷のような鉛筆の痕、そそくさと置き去りにされたしみ、これらは子供の指の痕跡なのだ。三十年の余も箱詰めにされてい屋根裏にしまいこまれ、世界じゅうのだれからも忘れさられていた幼時のぼくの指の痕跡なのだ!---ところで、さっきいったように、昔の自分を思い出すことなど、ほかの人たちにとってはなんの変哲もないことだろうが、ぼくにとっては天地がひっくりかえったような事件だった。》
母の死のために実家に戻り、そこで子供時代の自分に出会う。それだけみれば、いかにもありふれた事柄にみえる。だがここで、A2は、実家そのものには疎遠な感情しか持てず、子供時代のことを思い出しているわけでもない。A2がここで出会ったのは、子供の頃に読んだ本の内容ですらなく、子供の頃の自分の指の痕跡であり、かき傷のようななぐり書きなのだ。それはまさに《そそくさと置き去りにされたしみ》でしかなく、つまり、自分自身から通り過ぎ、過ぎ去っていった自分の痕跡にすぎないのではないか。とはいえ、《かき傷》のような、《そそくさと置き去りに》する感じなどに、自らの身ぶりの特徴を感じてはいるのだろうが。
だからおそらく、重要なのは記憶ではなく、そこのあった「身振りの痕跡」によって導かれた次の部分なのだ。
《ぼくはまたこの部屋で一日の多くの時間をすごし、腰をかけると足が床まで届かない子供のように本を読んだ。こんなことをいうわけはね、つまり、ぼくらの頭に支えがない、いいかえれば無のなかにそそり立っているということには、ぼくらは慣れっこになっている、足もとに堅いものがあるせいで。しかし子供時代というのは、両端とも完全に固定してはいない、のちに鉗子のようになる両手もまだ柔らかなフランネルのようで、本にむかっていれば、ひとひらの小さな木の葉にのって絶壁の上高く空をかけるような心地になるものだから。正直いうと、ぼくはほんとうにもう机の下の床に足が届かなかったのだよ。》
頭(上方)には支えがなくても、もう一方の足元は常に堅い地盤によって安定している。そういうものだと思い込んでいる。しかし、椅子に座ると床に足の届かない子供は、その両端が宙に浮いている。《両端とも固定してはいない》。A2が発見したのは、記憶や過去というより、子供時代のそのような「状態」なのだ。それは、《小さな木の葉にのって絶壁の上高く空をかけるような》状態なのだから、半ば、空を飛ぶ黒つぐみや、高所から落下してくる飛箭と同化しているとも言える。さらにA2はかつて、学生時代、学校にある教会の目もくらむばかりの高さにある石造りの露台で、《目を下にむけたまま手すりの上で、ゆっくりと筋肉を圧迫しながら五体を宙に浮きあがらせ、ゆらめきながら両手で立》つという《肝だめし》を発案したこともあった。
A2が家に戻ることによって出会い直すことになった「彼自身」とは、このような状態のことではないか。それは過ぎ去った時間や記憶ではなく「状態」であるから、通り過ぎたとしても、いま、ここに回帰してもくるだろう。
A2は、黒つぐみの声や飛箭の歌を経験した後、まるでトンネルを向こう側に抜けてしまい、《むこう側には同じ谷間や同じ家々や小さな橋のある別の世界がひろがっている》という感覚をもつ。それは、その経験そのものが両端(過去・未来)のどちら側もが地についていないような経験であり、それを通過することによって倒立(反転)が起こったためなのではないだろうか。一方の着地面から離陸し、宙吊り状態で宙返りし、もう一方に着地したら、ある境が越えられてしまった、と。ここで語られているのは、中空でくるっと回る、そのような状態なのではないだろうか。
つづく。