●つづき、八月の後半に撮った写真。
光は空から降ってくる。しかしそれは既に、大気で屈折し、雲を通過し、空の埃や水滴で乱反射し、いわば濁っている。地面(水面)は、降ってきたその光を受けとめて反射する。空からの投射と、地面(水面)からの反射が入り混じる中間で、地上のものたちは双方からの光を受ける。光を受けたものもまた、光を反射する。ものたちも互いに、それぞれが反射した光で互いを照らし合っている。光は複雑に重なり合い、もみ合い、絡み合う。光と影があるのではなく、光の様々な混合状態のバリエーションとグラデーションがある。
フレームはその一部分を切り取ることで、光とものとを環境の連続性から切り離し(分離し)、しかしそれによって、フレーム内に、ものたちと光との新たな関係(結びつき)を再配置し、発見する。フレーミングは関係づけであり、関係の発見であろう。
デジカメは、ある光の状態をフィルムに直接焼きつける(刻印する)わけではなく、フレーム内の光の状態の相対的な関係性をデータに変換し、そのデータを記録する。デジタル写真ははじめから抽象的な形式であろう。それは抽象的変換の一つの形式であり、その変換という過程(変換という媒介性)が、(フレーミングと同様)ものと光との新たな関係の再配置と発見を促す。もちろん、それが邪魔をすることも多々ある。
(おそらくカメラのなかに、あらかじめ画像を勝手に「いいように」加工してしまうソフトが含まれてしまっている。そして、その画像を実際に表示するそれぞれのディスプレイもまた…)












●昨日の写真の六枚目に映っている本はルゴーネスの『塩の像』で、ひらいているページは「火の雨」の最初のページ。場所は最寄駅前のマクドナルド。マクドナルドの堅い椅子は、長時間粘っても腰が痛くならないのでぼくには助かる。